足利尊氏 の弟、足利直義 の最期は「兄尊氏による毒殺」という『太平記』に記述された噂を支持する説が、現在も大勢を占めているようですが、反証は結構あるのですよね。
そのうちの一つ、観応3年(1352)正月、二人が鎌倉に入った時の「浄妙寺」の状況を考えると、そこに幽閉するって現実的ではない...というツイート。
最後の合戦で尊氏に負けてから(実際は和睦だけど)、直義は鎌倉浄妙寺に「幽閉されていた」みないに言われてもいるけれど、でも、当時の鎌倉なんて、まして足利邸周辺なんて直義の味方のが圧倒的に多いでしょうに。
— mu (@muromachoco) March 17, 2021
何しろ合戦前まで直義は鎌倉にいて、鎌倉から味方と出陣したんだから。
たとえ尊氏が勝者として鎌倉に入ったのだとしても、一瞬で浄妙寺・足利邸周辺から直義に心寄せる者たちを一掃する事は難しい…というかめんどいよね。
もし直義を幽閉したいなら、そこをあえて選ばないよね。— mu (@muromachoco) March 17, 2021
たぶん尊氏はいつもの二階堂に一番宿とったのだろうから、永福寺あたりの別当坊を自軍で完璧に固めてそこに置いとくでしょ。もし本当に、直義を幽閉したかったのならば。
— mu (@muromachoco) March 17, 2021
つまり、あの時直義が浄妙寺にいたって事は、尊氏からしたら「きゃぁ~直義逃げて~~」って言ってるようなもん…
…ではなくて、まあつまり、あの合戦後二人で鎌倉入りした後の1か月半、直義は普通に自由の身だった訳で。
尊氏にとって浄妙寺は「直義の身を守るのに鎌倉中で最も適した場所」だった。— mu (@muromachoco) March 17, 2021
まあ細かい事ですけど、でも諸説乱立しっぱなしの状態は何とももどかしいので。 未完の仮説は常に進化し続けなければいけないと思う。
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