こんにちは。 尊氏直義の御先祖・足利義兼さまの話の続きです。
今年の夏が始まる直前、室町幕府足利将軍家の聖地(聖地 オブ 聖地)である栃木県足利市の 樺崎の地 を訪れて以来、「樺崎八幡宮」「樺崎寺」が気になって気になって仕方なくなり、久々に図書館に足を運んだりなどして、足利義兼さん関連エピソード… 特に幼子兄弟、瑠璃王御前(るりおう ごぜん)と 薬寿御前(やくじゅ ごぜん)について没頭しておりました。
というのも、この旅の後すぐに知ったのですが、かつて樺崎寺の 下御堂(法界寺)に安置されていたという「大日如来坐像」がなんと、近年忽然と姿を現し、そして極めて数奇な紆余曲折を経て現在は都内のミュージアムで拝見できるとのこと! 本や図録の写真では何度も見ていたのに、その由来を深く考えたことが無かった不覚な室町ファンの私は、ここへ来て訪れた新たなる再会に「み、導かれている…」と都合よく妄想するのであった。(※現在は真如苑所蔵で、半蔵門ミュージアムで拝観できます。)
この「大日如来坐像」は、幼くして同日に亡くなった 瑠璃王 と 薬寿 の供養のために、父である義兼さんが先祖相伝の犀皮の鎧を売り払ってまで造像した仏像(運慶作の可能性が極めて高いほぼ100%)で、瑠璃王と薬寿の遺骨を 下御堂(法界寺)の仏壇下に埋葬し、この大日如来坐像を安置したと。 仏像が収められた厨子の中には、建久4年(1193)11月6日付の願文 も入っていたそうな。 (厨子と願文は現存していません。どんな祈りが込められていたのだろうか…義兼さん(涙))
まあ詳しい事はいいか。また時間の無駄な長文になる。。(´・ω・`) 瑠璃王と薬寿については、尊卑分脈や足利系図等には記載はなく、鑁阿寺文書の「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」(室町時代)にて、その存在を知る事が出来ます。
鑁阿寺文書の原文は「栃木県史 史料編 中世一」、分かり易い解説は【清水克行『(人をあるく)足利尊氏と関東』(吉川弘文館)2013】の106ページ~、もっと詳細は【峰岸純夫「足利樺崎寺覚書」(羽下徳彦編『北日本中世史の研究』(吉川弘文館)1990)】を。
さて、衝撃を受けた足利日帰り旅(←何と言うか、土地そのものから衝撃を受けました)の数日後、この大日如来様 に御対面すべくすっ飛んで行った訳ですが、いやはや実物は想像以上に凄かったです。あの 玉眼(ぎょくがん)は訴えて来るものがありますね。 写真では決して伝わらない深い瞳の光から、特別な意味が込められている事がひしひしと伝わって来ました。
(※運慶 は、如来や菩薩の仏像で玉眼にすることは稀で、初期の作以外はほぼ彫眼(ちょうがん)だそうです(玉眼だとリアル過ぎて尊さが失われるため)。 同じく足利義兼さんの大日如来坐像(足利市の「光得寺」所蔵で、こちらも運慶作ほぼ100%)が彫眼である事を鑑みると、この大日如来坐像の玉眼はますます意味深…。)
「ああ、この 大日如来様 は 足利義兼さん と実際に何度も対面したんだ…この瞳にお映しになられたのだ…」などと歴オタ妄想を炸裂させつつ拝見したその日から、どうにも 瑠璃王 と 薬寿 が心に引っかかって仕方なくなってしまい…。
↓以下、参考文献・資料。
【足利市教育委員会文化財保護課 編『法界寺跡発掘調査基本計画書』足利市教育委員会(1992.3)】
【足利市教育委員会文化財保護課 編『法界寺跡発掘調査概要 (足利市埋蔵文化財調査報告 ; 第29集)』足利市教育委員会(1995.3)】
【大澤伸啓「史跡樺崎寺跡出土四耳壺の埋葬形態に関する一考察」(『栃木県考古学会誌』第28号(2007.3))】
【大澤伸啓『樺崎寺跡 (日本の遺跡41)』(同成社)2010】
あと上に挙げた3冊、それから「鑁阿寺」をはじめ足利市の寺社に伝わるお話とか、あと今川了俊の手記『難太平記』も。
そして二人の兄弟の探求を進めるうち、あの当時の義兼さんを取り巻く状況のあれこれにも思いが及び———
まあここでは詳細は保留して、私が思ったのは… 足利義兼さんは想像以上に 重要人物 であるという事と、初期鎌倉幕府の源頼朝・北条家・御家人たちを巡るシビアな権力抗争では、、義兼さんも相当苦労してますよ。 来年の大河ドラマにもモロに直撃するところだと思う。(でも今のところ義兼さんあまり出番の予感無い?らしくて残念です (´・ω・`)... )
ところで私は常々、今川了俊 の手記『難太平記』(←タイトルは後世につけられたもの)は 軽視&誤解され過ぎ だと思っているのですが。 特に『観応の擾乱』辺りの記述は超超重要証言なのに、冒頭の 足利家言い伝え・義家置文 あたりの注目度が高すぎて…「足利将軍家称揚目的の盛りに盛られた喧伝本!たぶんだいたい虚構。」的な先入観でレッテル貼られて、考察以前に疑われて終わってる感。。 (´;ω;`)
でもこの手記は、了俊自身の説明でも内容的にも、どう見ても今川家子孫に向けて記した プライベート本 であって、その上「俺が生きているうちは絶対誰にも見せるなよ、絶対だぞ!(ガクブル 」と了俊が念押ししているように、喧伝どころか人に見せちゃいけない 極秘証言本 なのでむしろ 本当の事しか書いていないんじゃ…? ってゆう。
足利家にまつわる言い伝えについても、義兼さんが「空物狂い」をした理由を改めてもっと考える時が来たんじゃなかろうかと思います。(「源頼朝に近すぎた為」に、どんなやばい事があったのかと?)
「狂人の振りをした」という事は、裏を返せば実際は正常な理性を保っていた訳で、その上で「狂った振りをしてまでも、やり過ごしたり隠さなければならない事実があった(何か守るべきものを守るために)」と素直に考えれば、見えてくるものがあるのではないかと。(義兼さんの正室の北条時子の「蛭子伝説」は、そのうちの一つだと思う。二人は不義を疑う様な仲じゃなかったと思うのですよね。。) つまり当時の鎌倉幕府の水面下抗争まじガクブルですよ!たぶん。
…というかところで、現在に至るまで誰にも全くこれっぽっちも信じられていないあの話…「義兼は本当は為朝の子」という謎の記述。 『難太平記』を高く信頼する私ですら「ふ~ん、そうなんだ(謎過ぎて草w」くらいにしか思っていなかった訳ですが。 まあ他に手掛かりも無く考察のしようがないし、了俊が話を聞いただろう時点で150年とか200年も昔の話だし、そんな風聞もあったのかもね!…でスルーしていたのですが。。
し、しかし、有り得ない可能性100%!で終わらされていたこの話に、今になって再考の余地が急浮上——— (私の中で)
まあいいか、無駄に横道で道草になるので今はやめよう、今は。(つまり後でやる)
では最後に、長らくまともに絵を描いていなかった私の渾身のリハビリ絵1-2枚目、完成度低いですが許して。(これでも何度も修正加えた苦行作。2021年7~8月作成) お兄ちゃんの 瑠璃王 は数え10~12歳くらい、弟の 薬寿 は2歳下くらいのイメージにしました。
リハビリ第一弾で普段全く描かない 女の子 描くとか、我ながら精魂尽き果てました。 …ああいえ、瑠璃王と薬寿は 男の子 (兄弟)です。なので装束や髪形は男の子で描いてます。(※前髪はファンタジーです。みずら等の男児の髪形は前髪は作りません。)
でも瑠璃王と薬寿って、色々言い伝えや史料を総合すると、どう考えても 女の子の姉妹 なんですよね。。しかも 嫡男の義氏 より先に生まれたお姉ちゃんたちのはず。 つまり、二人が亡くなった背景には何らかの秘密ないし悲話が… それに気付いて以来、気になって気になって仕方なくなってたまらなくなって、うん年振りに絵筆(デジタル)を執った訳です。
(※以下、12月2日(記事投稿の2日後)の追記です。なんてこった…)
この記事をUPした次の日の事なんですが…
ちょっと探し物があって、私の部屋に山積みになって眠っている資料の束の一つを久々に漁っていたら、たまたま新田関連系図資料のコピーが目に付いたんですよ。 「あーこんなもんもあったけな…」と、すっかり忘れたタイムカプセル気分でパラパラと見ていたら… そこに 足利義兼さん情報 が載ってて、なんと上記の私の推測(=瑠璃王と薬寿は 義氏より年上の姉妹)がまんま記されていた!ってゆう。
何この偶然w これをコピーしといた過去の私超グッジョブ!! …ですが知らずに記事書いてUPした昨日までの私呆然 (´・ω・`) …まあいいか。
瑠璃王と薬寿については、「兄弟」と記された史料により「男の子」としている研究・論説がほとんどで、私も基本スタンスは男の子と捉えていたのですが、やっぱりかぁ…でした。 「女の子」の方が他の色々な伝承との辻褄が合いますからね。 でもこの系図史料の義兼さん情報があまり顧みられていないのはなぜだろう… 新田関連史料として知られているから、とか?
(※なお、この系図の記述は「女子二人同日早世」というもので、瑠璃王・薬寿の幼名の記載はありませんが、他史料と照合すると二人の事で間違いない、と。)
それにしても何たるタイミング。 足利さん関連の研究 をしていると、こういう不思議な事が良く起こる気がする。。 私が 尊氏さんのあれこれ を知ったのも、自分の実力だけではなくて(確かに脳みそすり減るレベルで研究したけど)、こういう不思議な何かにアシストされたんだと思っているのですよね、実は。
だからこそ、自分一人の成果にせず、尊氏さんを愛する人たち と共有&協力したいと切望している訳です。(独り占めにしたらバチ当たりそうだし、そもそも独り占めに出来ないようになってると思う。) だから尊氏さん、もうひとミラクル起こして協力者様をご紹介して下さい (´;ω;`)
ところでもう一つ、今回見つけた系図史料と、さらに7月に集めた上記の資料も改めて見返してみたところ、すごく気になる事があったのですが‥‥
「足利義兼さんと運慶の関連を示唆する 記述 がある」というもの。
足利義兼さん願主の有名な大日如来坐像2体(かつて樺崎寺にあった)については、その造形や様式から運慶作の可能性が極めて高いと判断されたものであって、義兼さんと運慶の関係を "文書的に" 記した史料があることは、私は今回この史料の記述で初めて知ったのでちょっとわりと驚きました。 やっぱり運慶とコンタクト取ってたんだ!と。
記述の簡略な内容は…「義兼さんは仏司運慶を召して(鑁阿寺の本尊として)等身の大日如来を作り、その腹(像内)には覚鑁上人自作の不動尊が納められている」、もう一つの史料では「義兼さんは鑁阿寺を建立し、仏司運慶を召して等身の大日如来像と仁王像を彫った」というもの。 (※どちらも後世の史料ですが、まあそれなりに根拠のある伝承だと思う。)
義兼さんの祖父の義国さんが「覚鑁上人 から 阿字 の頌(じゅ)を贈られて、今まだここにある(@江戸時代)」とあるので、大日如来像内の「覚鑁上人自作の不動尊」というのも縁あってゆえの事の様だし。 (つまり義兼さんの法号「鑁阿」は 覚鑁上人&阿字 から来てると思っていいのでしょうか? …でも、ネットや辞書で調べても「鑁阿寺の「鑁阿」は梵語で「大日如来」のこと」としか書いてないの謎。。)
というかこの2つの史料を見てると、ますます 高野山の鑁阿上人 と 足利義兼さん が、何の関係も無い全くの別人とは思えなくなって来て軽く錯乱するのですが。。(高野山から足利に帰ってきてから「鑁阿寺」を建立した、とかな時系列になってる(´・ω・`) )
(同一人物とするには確かに無理っぽさ高めなのですが…)でも高野山の方の古記録にも「鑁阿上人=源義兼」ってあるのどう解釈したらいいの?? というか「鑁阿」の由来が上述のように「覚鑁上人から贈られた阿字」だとしたら、同時代に同名の僧侶がいた確率めちゃ低いよね??? ———つまり義兼さんは、並行宇宙を生成しパラレルワールドを行き来する能力があった… あるいは時空を歪めて常人の1年で10年分生きるアビリティがあった…(まあいいかこの辺にしておこう。)
現在の「鑁阿寺」のご本尊は特に運慶作という訳ではなさそうですが(ネットで調べただけですが)、弘安10年(1287)の本堂火災で当初のご本尊も失われてしまったのでしょうか…?
史料には「元祖守り本尊大日尊」とあるから、その当時すでに過去のご本尊の可能性が高いので残念ですが、義兼さんによる 幻の3体目の運慶作大日如来像… すごく気になる。。
という訳で、追記は以上です。 義兼さんにまつわる運慶作大日如来像、そして同日に夭折した二人の姉妹、瑠璃王御前と薬寿御前の 不可解なくらい手厚い供養 に隠された秘密とは——— うーん、足利伝説の潜在力が無限大過ぎて沼。
(※以下、気になり過ぎて気が収まらないので今さら追記 2022年3月17日)
当初、「樺崎寺」の 下御堂(法界寺)の仏壇下に埋葬されていたとされる 二個体の四耳壺(※発掘された場所は地蔵堂跡の少し北)に納められていた火葬骨についてなのですが… 以下参考文献↓
【足利市教育委員会文化財保護課 編『法界寺跡発掘調査基本計画書』足利市教育委員会(1992.3)】
…の、6-(1)法界寺跡出土人骨鑑定報告書
【大澤伸啓「史跡樺崎寺跡出土四耳壺の埋葬形態に関する一考察」(『栃木県考古学会誌』第28号(2007.3))】
上記によると、「一つは女性の可能性70%前後、40歳台ないし50歳台初め」「一つは女性の可能性90%以上、30歳台後半~40歳台前半程度」「いずれも中年ないし初老期の成人で、成長期という可能性はない(老年でもない)」との事なのですが、、
ええと、うーーん、どちらも 女性 なのは良いのですが、年齢が…「ギリ成長期以前の10歳前後以下くらい」の可能性を夢見たいのですが…無理?(´・ω・`) 再鑑定とか…無理?無理??
人骨比定って、男女の性別が入れ替わる可能性はあっても、年齢帯の推定はガチっぽい雰囲気なのでどうにも。。 でも 瑠璃王 と 薬寿 だと思いたいのですよね、義兼さん がその安らかな成仏を心から祈った 愛娘たち だと!
…という事を、去年の8月から一人で延々と考え続けています。 瑠璃王と薬寿に夢見る 足利義兼さんオタ の方がいらっしゃいましたらご意見下さい! m(_ _)m
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