こんにちは。 前回の記事「「尊氏なし」という名の建武新政期の実情」に続いて、「西園寺公宗クーデター未遂事件」「中先代の乱」の真相について語っておきたいと思います。

 

まずは、過去の関連ページのリンクを再掲します↓

 

★本サイト『2-2』「幕府創生、本当のところ」(2014.3.29、12月一部改訂)

元弘3年(1333)鎌倉幕府終焉~建武新政期~室町幕府誕生あたりの時期の概要

★本サイト『2-2』「東国へ駆ける」(2014.3.29、12月一部改訂)

建武新政期の京都における「護良親王による尊氏暗殺計画」~「西園寺公宗のクーデター未遂事件」~ 鎌倉での北条残党の反乱「中先代の乱」

★本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」(2014.3.29、12月一部改訂)

「中先代の乱」鎮圧後、鎌倉の足利勢が、京都から難癖つけられてゴタゴタする~(中略)~「竹之下・箱根の合戦」

 

★『Muromachi通り』「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)

「中先代の乱」鎮圧後の時期の、足利家長(斯波家長)の奥州下向 にまつわる不可解、そこから浮かび上がる「中先代の乱」と「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相(尊氏が察していた事)を予告程度に言及

 

…今回の話に関連するのは 4つ目 のブログ記事です。 時系列と概説については 2つ目 のリンク先を。

 

さて、何からどう話そう…うーん。。(´-ω-`)

とりあえず、一般知識はネットでも探せますし、ここではこの時代の暗黙の大前提入門書【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】(※初版:1965)の内容は共通認識扱い、という投げやり感で語りたいと思います。

さて、上記4つ目のブログ記事で私は、この2つの事件 について 尊氏「(本来)知るはずも無い 真相 を、すべてお見通しだった」とかる嫌な予感 がしていた(何かに気付いていた)」と予告しましたが、その辺について語ります。

 

 

まずは建武2年(1335)6月に起こった「西園寺公宗クーデター未遂事件」ですが、これは西園寺公宗 が持明院統の上皇と謀り、後醍醐天皇 を亡き者にして天下の実権を奪おうと企てた国家転覆未遂事件」とされています。

鎌倉時代に代々 関東申次 を勤めた 西園寺家 は、執権北条家 と深い縁故があったことから、幕府滅亡を逃げ延びた 北条泰家(北条高時の弟)を密かに自邸に匿い、後醍醐天皇 を暗殺して 北条家再興と幕府復活 を目論んだ(そして往時の関東申次西園寺家の権勢を再び!)…という、まあざっと説明しただけでもとんでもない計画ですが、しかし、よくよく考えてもやはり色々と無理がありそうな事件なのです。

(なお事件の顛末は、事前に計画を知った 西園寺公重(公宗の弟)が、後醍醐天皇に密告したため未遂に終わり、西園寺公宗は捕縛され、最終的には死罪とされてしまいます。)

 

ところで、この事件に疑問符を投げかけた論説として…

【橋本芳和『建武政権転覆未遂の真相(Ⅰ~Ⅳ)東西同時蜂起計画の信憑性』】
(【学術文献刊行会『日本史学年次別論文集 中世1 2008年版』(朋文出版)2010】収録)

…が良く知られていて、西園寺公宗周辺情報 が詳細に調べ上げられており秀逸ですが、結論 として「西園寺公宗は北条と連携しておらず陰謀は存在しなかった。北条残党と公宗の結託を恐れた後醍醐天皇が、無実の罪を捏造して西園寺公宗を粛清した事件」としている部分が異論が多いようです。(一次史料的にも(真相はどうあれ)西園寺公宗が関わった何か があったのは事実でしょう。)

しかし「確かになんかおかしい…」と感じる事には すごく賛同 致します。 なぜって、こんな国家転覆計画、西園寺家の地位&権威回復の可能性より、西園寺家滅亡の可能性のが何倍も高すぎて、常識的に考えたら デメリットしか無いですもん。

 

動機 にしたって、「建武新政権が発足した事で、関東申次だった西園寺家が失脚・冷遇されたから」…というけれど、西園寺公宗 は官位を一旦解かれたものの2か月後には還任してるし、後醍醐天皇 との関係は悪くない。(むしろ良い。) 西園寺家 は(大覚寺統の後醍醐天皇より)持明院統 と近かったから事件を起こした」…という見解もあるけれど、その辺の関係を探っても結局は両統と関係が深いとしか思えないのですよね。(だから皇統との親疎関係に事件の原因を求めるのは難しい。)

 

そもそも、前回記事で説明したように、建武新政期の実情 というのは、しょっぱなから色んな意味でハチャメチャだったのですよ。 そんな不安定な世情で、鎌倉幕府と深い関係だった西園寺家 は、新政権の世 に生き残る場所を確保出来ただけでも不幸中の幸いだったのではないかと思うのです。

(恐れを知らない武士どもならヒャッハーは何ともないでしょうけど)、公家 にとっては、昨日までの常識が一瞬でひっくり返るような激変の時代に 無駄な危険 は冒せないのではないかな。何は無くとも 安全第一 でしょう。 それなのに(折角、後醍醐天皇の世で 安心・安全確保 できた矢先に)国家転覆 して 北条家再興 して、再び関東申次として 大権勢 を振るう!この世は我がものに出来る!!」…なんて野望を抱くような脳みそ沸騰した公家がいるとは思えないのですが。。

 

 

それにですよ、これまた前回記事で説明した「尊氏なし」の真意 が証明しているように、当時の世上の意識では「幕府復活の可能性は 足利尊氏に一点集中していたという実情があります。 この風潮の京都に居ながら後醍醐天皇一人 を倒せば、北条による幕府が再興できる」という予測を立てられる脳みそは存在しないんじゃないかと? (尊氏勢力のことすっぽ抜けてるよ!…というか 当時の京都 に生きてたら、尊氏勢力の存在感がすっぽ抜ける訳がない。

どう考えても、後醍醐天皇 を暗殺したら世論 に押されて)尊氏 を頂点とする 暫定武家政権 が爆誕するだけですよ。後醍醐天皇の皇子で皇太子の 恒良親王 を奉じて。

(※この時点で、護良親王 は囚われの身、北畠親房・顕家父子 は奥州、後醍醐天皇周辺の奸臣・讒臣どもは権威の後ろ盾がなくなれば雑魚。 恒良親王の生母 阿野廉子 は持明院統への危機感から、最大勢力である尊氏と真っ先に win-win 関係を築くだろうし、近臣の武士たちとは、尊氏は協力体制を敷くでしょう。)

 

もし仮に…「後醍醐帝国における足利尊氏の立ち位置は 冷や飯食いの最弱末端モブくらいのパラレルワールドだった場合なら「後醍醐天皇を倒して建武新政権崩壊 → 足利尊氏も没落」というシミュレーションも100万歩譲って許されるかも知れないけれど… いやまあ無いか。自分で言ってても意味が分からんわ。

 

とにもかくにも、新政権における 勢力図の実際 後醍醐天皇自ら 尊氏排除を密かに企図」していて、それゆえ「(ただでさえ世論注目度No.1の)尊氏勢力 は一層 特異 突出 した存在になりつつあった」という当時の複雑な現状では後醍醐天皇を倒す事は、尊氏を倒す事にはならない(むしろ尊氏が助かっちゃう)」これは重要な論点です。

…つまり、当時の勢力図では打倒後醍醐天皇 は、足利尊氏 を暗殺の危機から救う 強力な利敵行為ってゆう北条にとっては何が何だか分からないオウンゴールにしかならない訳ですよ!!

 

 

作戦立て直し ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ 一旦解散!!

 

 

ところで話は変わって、「西園寺公宗クーデター未遂事件」の翌月7月に起きた「中先代の乱」についてですが…

これは、北条時行(最後の北条得宗家当主 北条高時 の次男、まだ幼少)を擁した諏訪頼重・時継父子ほか 北条残党 による 鎌倉 を標的とした反乱ですが、この乱は(『太平記』にも語られている通り) 京都 での「西園寺公宗クーデター未遂事件」と連動したものでした。

すなわち、当初の予定では 京都 で後醍醐天皇を討つと同時に、北条勢が 鎌倉 に攻め入る計画だったが(さらに北陸でも別部隊が蜂起予定だった)、実際は京都のクーデターが未然に発覚してしまい 同時攻略は不可能 となる → 翌月に 鎌倉だけでも と計画を強行した、と。 (※この当時、鎌倉では 成良親王 を奉じた 足利直義 が政務に当たっていました。)

 

乱の経過は、一旦 北条時行軍 が鎌倉を攻め落とすものの、しかしその後すぐ京都から駆け付けた 尊氏 によって 鎌倉 は奪い返され、反乱はわずか 20日間 ほどで鎮圧されて終わるのですが、この「中先代の乱」の後(そして 足利幕府 が誕生し、朝廷が 後醍醐天皇の南朝持明院統の北朝 に分裂した後)北条時行 は後醍醐天皇から赦免を得て帰順し、以後、南朝方 として 北朝方の足利幕府 と戦いを続けて行く事になります。

『太平記』によると、北条時行は「あくまで許せないのは(「中先代の乱」後に)後醍醐天皇と決別し朝敵となった 足利尊氏 であって、(鎌倉幕府倒幕を導いた)後醍醐天皇 には塵ほども恨みはありません」と申したとか。

 

…え、京都のクーデター にも 鎌倉占拠 にも失敗して戦略の立て直しを迫られたからとは言え「さっきまで西園寺公宗と組んで お命狙ってた 後醍醐天皇への帰順ってどんだけアクロバットな心境変化なの?ちょいと節操無さ過ぎない??」…てゆうかそれ以上に「後醍醐天皇もいいの?暗殺未遂かましといて「塵ほども恨みはない」とか どの口が言うか とかそういう事問題にならんの??」…と言いたいところですが、そうでなはくてこれはやはり、そもそも 原点に返って考え直す必要がある と思うのです。つまり———

 

「西園寺公宗クーデター未遂事件」は、本当に 後醍醐天皇暗殺計画だったのか?

 

という訳で、この 新しい出発点 においては、はっきりしている事はせいぜい西園寺公宗は北条と連携していた(だから旧知の北条と利害が一致する行動をとるだろう)」という事くらいでしょうか。

西園寺公宗 は、「中先代の乱」で 尊氏 が鎌倉へと出発した 建武2年(1335)8月2日の 同日 に、(それまで流刑に処される予定で拘束されていたのに)突如 処刑 されてしまうのですが、これは「中先代の乱」を起こした 北条残党への牽制 であることから、両者に関連がある事はほぼ間違えありません。 (北条残党反乱への威嚇・報復として、拘禁していた与党の処刑が行われた 同様の例 は →『大日本史料』建武元年3月21日、同年12月28日 (※上記『南北朝の動乱』p.127-128 参照))

 

 

ここから ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ 再出発

 

 

さてここで、『太平記』によると「西園寺公宗クーデター未遂事件」は、西園寺家の別邸「北山殿」(※現在『鹿苑寺』(金閣寺)が建っている場所)を舞台にした計画だったそうです。 この計画の為に 湯殿(お風呂場)を新設し、上がり場に一歩踏み込めば床が落ちる細工を施して床下に刀を逆さにして並べ立て、後醍醐天皇 行幸 を願い出て 湯殿 に通せば ジ・エンド …という物騒な仕掛けだったと。 ただまあ『太平記』の記述は、6月に起こったこの事件を「紅葉の時期」としているので、事件の詳細はやや盛ってる感ありますが、舞台が「北山殿」であった事は信じて良さそうです。

「北山殿」への 後醍醐天皇の行幸 と言えば、実際の史料的にも『大日本史料』建武元年(1334)5月9日(=方違え)、同年10月14日(=笠懸を見学)で確認できるのですが、 …というか、こんな風に行幸を受けていた関係で、暗殺しようとか普通思わないよね。。(´・ω・`)  まあいいか。それはそうと、前回記事「新政権期の京都の実情(物騒さ的な意味で)」の【建武元年(1334)】に「(尊氏暗殺軍のカモフラージュとして)後醍醐天皇の臨時の行幸を装って(隙を見て奇襲、という計画が度々あった)」と書きましたが、その行幸の先は実は「北山殿」だったのです。(『梅松論』)

 

…え、尊氏暗殺のシナリオ で使ってた場所で、よりにもよって 後醍醐天皇暗殺計画 立てちゃうの…??というか北山殿に 尊氏暗殺軍カモフラージュ行幸 が行われてたこと、たぶん 西園寺公宗 も知らされてた仲なんじゃないの??かなり深い仲じゃない?それで帝暗殺??」と言いたいところですが、これは普通に考えれば———

 

「この湯殿計画も、尊氏がターゲットだった と考えた方が自然なんじゃないか?」

 

毎度後醍醐天皇の 北山殿行幸 に随行していたであろう尊氏を狙うのに、これほど適した場所もあるまい。 道中 の奇襲が不可能なら、室内 で護衛を払い単身となる瞬間を…という戦略変更———

そうつまり、当時の世情、利害関係、政権内の勢力図、他事件との類似性、計画の常識性 等々、あらん限りの要素を統合すれば「西園寺公宗クーデター未遂事件」とは、後醍醐天皇暗殺計画ではなく、(護良親王の場合と同様に、密かに叡慮を受けての)尊氏を標的にした暗殺計画 だったと考えた方が、普通で自然で理路整然なのではないか!

(※護良親王 の行動の背景に 後醍醐天皇の叡慮 があった事は、『梅松論』のほか、『大日本史料』建武元年11月15日の「押小路家文書」( 前回記事 の田中義成『南北朝時代史』p.118 参照)にも明らかです。)

 

北条への恩後醍醐天皇への忠誠 で板挟みになっていただろう 西園寺公宗 尊氏暗殺 に協力すれば 北条を赦免するという取引を持ちかけられたのではないか? 尊氏自身に恨みは無くとも、西園寺家の生き残りを考えたら、引き受けるしか道は無いでしょう。 それに、この事件の2か月半前に 西園寺公宗兵部卿(兵部省の長官)に任じられているのです。(『大日本史料』建武2年4月7日、上記論文(Ⅱ)参照。…なお前々任者は 護良親王) こ、これはどう考えても 事前報酬 …。 兵部卿という律令制の官職は既に名目的なもののように思われますが、後醍醐天皇の政権下ではそうでもない(護良親王しかり)というのと、少なくとも「軍事行為を任された感」がそこはかとないのは、私だけの気のせいではないはず。。

 

 

(※なお、兵部卿の前任者 で左大臣&皇太子傅の 二条道平 は、建武元年12月17日に「護良親王が流配となったのでその替」として任命されており(『大日本史料』同日条)、しかし翌年2月4日に他界、そして4月7日に西園寺公宗が兵部卿へ… という事なのですが、後に南朝の重鎮となる 二条師基(道平の弟)が軍事行動も担い兵部卿も任官している事を考えると、もしかして当初は 二条道平 が計画を任されることになっていたのかも… とか考え出すと切りがないのでやめておこう(´・ω・`) というか後述の 持明院統上皇の身柄拘束 二条師基 が後醍醐天皇の勅使として関わっていて、裏を知らされている感が… いやだからやめておこう。。)

(※ちなみに、二条道平の娘 二条栄子は後醍醐天皇の女御(妃)。 また西園寺公宗については、祖父 西園寺実兼の娘 西園寺禧子と、姪の一条局、それから西園寺公宗の母方の祖父 二条(御子左)為世の娘 二条為子と、長男(=為道)の娘 二条藤子も後醍醐天皇の妃。 つ、つまり…「後醍醐天皇と姻戚関係がある者が兵部卿に任命される = 秘密計画を任される」という法則が成り立… いや見なかったことにしよう、うん、何も見てない... (´・ω・`) )

 

 

…という訳で全容の輪郭が見えて来ました、「西園寺公宗クーデター未遂事件」「中先代の乱」は元々、京都で西園寺公宗が 尊氏 を、鎌倉で北条勢が 直義 を討って、尊氏勢力同時抹消 するのが目的の計画であり、尊氏を消した後で 北条時行 が赦免される算段だった。 そう考えるのが最も筋が通る解釈ではないかと。(※なお、持明院統上皇の関与疑惑については後述↓ )

 

 

以下 ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ 見て来たかのように語る

 

 

北条残党 による地方での反乱は、早くも新政権発足の年 元弘3年(1333)冬から始まり、建武2年(1335)にかけて頻発していました。(※この辺、『大日本史料総合データベース』⇒キーワード「北条」、同期間で調べたり、あと上記『南北朝の動乱』p.104~参照)

後醍醐天皇の勅命で、尊氏が 北条高時 および 北条一族 の菩提を弔うため、その邸宅跡に「宝戒寺」を建立するのは、建武元年(1334)冬 ~ 建武2年(1335)春 にかけての事なのですが、これは、各地で収まらない戦乱が、平氏(北条一族)の怨讐の為だとされたからです。(『大日本史料』建武2年3月28日)

そのような状況と、一方で高まり続ける尊氏待望論、しかし護良親王や近臣武士たちによる暗殺作戦は悉く失敗に終わる…。 そんな 不都合の連鎖 が臨界に達した時、尊氏を排除して北条を赦免という発想の転換が起こっても不思議ではないのではないか。

「秘密裏に 北条の人脈と戦力 を使い、幕府再興の期待を一身に集める 尊氏を排除 する。 尊氏と入れ替わりに 北条を赦免 して、各地で繰り返された 反乱は収束 へ。 北条では将軍にはなり得ず 幕府復活は不可能。 尊氏なき世では 東国の武士たち も渋々京都に従うようになるだろう」

建武の全憂鬱 一手 で解決する、決して無理はない巧妙な計画ではないかと思います。 (少なくとも「後醍醐天皇を暗殺して思い通りの我が世をゲット!」…などという計画よりは現実味が100倍あると思われる (´・ω・`) )

 

 

(※憶測に憶測を重ねますが、「北条の戦力利用」の発案がなされた時期は、兵部卿前任者の二条道平が他界した 建武2年(1335)2月4日 ~ 西園寺公宗が兵部卿に任官した 4月7日 の間の約2か月間… と見る事が出来るかも。 だとしたら… 北条泰家(北条高時の弟)は「西園寺公宗を頼って(自ら)上洛し田舎侍風に召し使われて」いたと『太平記』にはあるけれど、もしかしてこの発案後に 各地の北条残党との連絡係として 潜伏してた奥州から呼び出された、というのが実際なのかも。)

(※…え、そうすると、北条泰家も、信濃に匿われていた幼い北条時行も、もともと鎌倉幕府復活の強い願望を抱いてたというよりは「しょんぼり潜伏してたら棚ボタでお家再興のビッグチャンスが舞い込んで来たマジ??なのであって、尊氏への復讐に燃えていたというより「尊氏と正面切って対決する事も、その後生涯の敵となって戦い続ける事も、わりと予想外の運命だったというのが実態に近いのかも?? (一応、『太平記』によると北条時行は「鎌倉幕府倒幕の件に関しては、勅命に従った尊氏の行為は公儀として恨んでいない」と言ってるし。) まあ、全く思う所が無かった訳ではないだろうし、いずれは敵陣営に属する宿命だっただろうけど、この時代の登場人物はみな例外なく、数奇な運命の主人公なのかもなぁ…などと思う。)

 

 

 

しかし、そんな完璧かと思われた計画も…「西園寺公宗が 後醍醐天皇暗殺の陰謀 を企てている」という 西園寺公重(公宗の弟)の密告で明るみに出てしまいます。

(『太平記』によると、西園寺公重 は「公宗が帝に臨幸を勧める訳を 或方(=ある筋)から知らされた」そうです。 誰が公重に…とか考え出すと迷宮過ぎるのでここではスルーしますが、敢えて言えば西園寺家に恨み、または公宗に妬みを持つ者でしょうか。 だとすると 西園寺公宗 はやはり、失脚や零落という境遇ではなく、度々の行幸を妬まれる様な 恵まれた立場 だったのかも知れません。)

 

『太平記』には、この密告で逮捕となった時、西園寺公宗 は騒ぐ様子もなく「これが讒言(虚説)であることは帝は分かって下さるでしょう」と大人しく連行された、と書かれているのが妙に引っかかる訳ですが、これも 後醍醐天皇 と示し合わせていた計画だったのならさもありなん…と思う訳です。

そんな 西園寺公宗 の願いも虚しく「太上天皇の旨を奉じて国家を危うくせんと謀る」という罪状で流罪に処される事になってしまうのですが(『大日本史料』建武2年6月26日)、これは 護良親王 の時に「(尊氏邸襲撃は)叡慮ではないと無関係を装った事を思い起こすと、今回も 後醍醐天皇の関与 を隠す為には「西園寺公重からの密告内容 をそのまま信じる振りをするしかなったから」と考えられます。(「北山殿」の湯殿は 実は尊氏暗殺の仕掛けだった…とはバレる訳には行かない。)

 

鬱になる真相ですが…しかしこの 両事件の相似性 は偶然ではないと思います。 帝自ら尊氏排除を企図していたと天下に知られれば 大勢の武士たちの反発 を招き、公武水火の政権 は一気に崩壊へと向かいかねない。 それゆえ、部下同士の私闘 事故 に見せかける必要があったし、発覚した場合は「国家への謀反」という別件で片付けてしまわなければならなかったのです。

 

 

こうして 京都の計画 が失敗してしまい、蜂起のタイミングを逸した 北条残党 が、自分達の鎌倉侵攻だけでも実行しようと立ち上がったのが「中先代の乱」。 実力行使に出てしまえば、後醍醐天皇の承諾 は後から得られると踏んだのではないかと。

 

「中先代の乱」というのは冷静に考えると、一族郎党滅亡したばかりの 北条勢力 が(各地で局所的な反乱を起こす勢いはあったとはいえ)単独で鎌倉占拠 したところで「え、その後どうするの?」「建武新政権全面敵に回してどMなの?」としか思えない一見 無謀・無策な反乱 なのですが(※従来の説で考えた場合、この時点で持明院統の上皇との連携が断たれた北条時行勢には、幕府再興は権威的にも現実的にも不可能、これはつまりどう考えても勝算 が見込めるような 後ろ盾の "当て" が他にあったはず」と見るのが正解かと。

上述の通り、実際に北条時行が後醍醐天皇に 公然と帰順 するのは南北朝分裂後ですが、既にこの頃からの 暗黙の既定路線 だった可能性は高いと思います。 …ただし、あくまで「当て」であって、双方意思疎通した「確約」とは程遠い段階だったと思われ、「尊氏暗殺成功」という条件が揃わぬままに強行された「中先代の乱」は、後醍醐天皇にとっては 想定外 であり、極めて 都合の悪い事態 となってしまうのですが。

(中世の事件って、何らかの権威 を背景にしている事が本当に多いです。脳筋武士が勝算無くヒャッハーしている…と思われがちだけど、現代人の想像以上にみんなちゃんと考えていますよ (´・ω・`) まあたぶん。)

 

(※…とはいえ、このような意思疎通の不完全さを考えると実態は… 「北条赦免戦略」が持ち上がってすぐに西園寺公宗を兵部卿に任官(建武2年4月7日)…くらいの駆け足で、後述のように奥州等の地方への根回しも無い非周到・非公式な計画だっただろうと思います。 ちなみに、この建武2年4月7日の臨時除目では、まだ数え6歳の足利義詮(尊氏の嫡男で鎌倉在住)が「従五位下」に叙されていて、これは表向きには「先月3月くらいに故北条高時邸跡に「宝戒寺」が完成した事への恩賞」だと思うけど、この妙な幼さが謎過ぎるので、実際のところは「西園寺公宗の兵部卿任官のカモフラージュ…」にしか見えないのですがどうなん…?(´・ω・`) )

 

 

「中先代の乱」で鎌倉を敗走した 直義 を救う為、尊氏 は鎌倉下向の勅許を 後醍醐天皇 繰り返し求めるのですが、ついに許可は下りませんでした(『梅松論』)。 地方の主要拠点を敵方に落とされるという 緊急非常事態 に、トップの帝が 援軍の勅許を頑なに躊躇する って意味不明ですが(←これは「尊氏が鎌倉行ったら幕府復活されちゃう…という懸念の為」と考えられていますが、この緊急事態にそんな未来の心配してる場合じゃないでしょ、と思う)、つまりこれはそもそもが尊氏たち排除の為の計画 だったから」と考えれば筋が通る訳です。 京都で消すつもりだった 尊氏 を取り逃がすことになるのですから本末転倒、そりゃ焦るでしょう。

(尊氏の出陣を拒む一方で、凶徒反乱の静謐の祈祷を繰り返している(『大日本史料』建武2年7月28日、8月1日)という矛盾は、つまり 尊氏東下断固阻止 の視点で見れば納得なのです。)

 

しかし、勅許を渋ってたら 尊氏が強行出陣を開始 したので、慌てて 西園寺公宗 を予定外に処刑するまでして 北条軍の独断専行 を止めようと試みたものの時すでに遅し。 尊氏は逃がす し、鎌倉も奪還 されちゃうし、尊氏たちが(少なくとも建前上は)新政権の一員のうちは 北条の赦免は出来ない し、そうこうしているうちに 京都の尊氏 鎌倉の直義 が合体して 東国武士どもが完全体にミラクルトランスフォーム しつつある… 何この 連鎖ブーメラン反応。。(´・ω・`)

つまり、北条は見切り発車で「中先代の乱」を起こして、結局オウンゴール決めたのであった。

 

 

尊氏は ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ 建武のファンタジスタ

 

 

あとそれから、西園寺公宗の罪名 持明院統の上皇 の旨を奉じた」ものとされたのは(←これは一次史料的事実です)建前上の話だと思います。 西園寺公重の密告内容(=後醍醐天皇暗殺で国家転覆計画)は、上皇の権威 が無ければ成立し得ないものなので、罪名上 の形だけそうせざるを得なかったのでしょう。

(※事件当時の「持明院統の太上天皇」は 後伏見法皇、花園上皇、光厳上皇 で、そのうち誰を指すのかは不明ですが(後伏見法皇 としている論説が多いけど、それ以外も。前回記事 の田中義成『南北朝時代史』では光厳上皇 としてるけど特に理由は無し)、まあ特定する必要はないのではと思います。 仮に陰謀があったとしたら合意の上での事だろうし、そもそも陰謀じゃないし。なぜなら… ↓ )

 

持明院統の上皇 は、事件発覚前の 6月17日 に持明院殿から京極殿に移され、これは 西園寺公重の密告 があった為の身柄拘束だと考えられるものの、西園寺公宗自身 が逮捕されるのは 6月22日 で、その間 5日 もあるのは謎な訳ですが…

もし本当に国家転覆計画だったとしたら、持明院統の上皇の権威 は絶対条件ですが(公家だけで後醍醐天皇に対抗するなんてのは絶対有り得ない発想)、その上皇が 監視下に置かれた(つまり計画がバレた)なんてなったら、すぐさま証拠隠滅して京都を逃げ出さなきゃならんレベルなのに、5日間ももたもたしてるって…? これはつまり、もとより 持明院統の上皇の関与は無く(それゆえ西園寺公宗もこの動きを不審に思う事も無く)、新政権側によってほんの一瞬身辺の安全を図った(ふりをした)くらいの事だったのではないかと。 6月24日 には 光厳上皇 が皇子御降誕の祈祷を命じたりしてて、なんか普通に日常っぽいですし。(『大日本史料』同日条)

 

それにもし本当に 持明院統の上皇後醍醐天皇暗殺計画への関与の証拠 があったなら、自身の皇統に一本化を望んでいた 後醍醐天皇 は、(それまで互いに皇女を入内させ合っていた融和路線を変更して)持明院統の皇統を絶つ …までは行かなくても、何かしら強い態度に出ていたのではないかと思います。 でも、この件で持明院統の上皇はその後なにもされていません。

 

それから何より、「後醍醐天皇を暗殺して持明院統の世を再び!」という手段を選ばない 利己的な考え は、『誡太子書』を記した 花園上皇、その帝王学を受けた 光厳上皇 が是とするとは思えないのです。 以前紹介した 光厳上皇直義 の史実エピソード(「直義の年齢(その2)」2015.11.3 )を考えても、あまりに整合性が取れな過ぎて。

この5か月後、建武2年(1335)11月22日に 花園上皇 は御落飾(出家)なされ、後伏見法皇 も同月に御法名を改められるのですが、これは11月19日に(鎌倉の尊氏たち追討の為)尊良親王 を奉じた 官軍 新田義貞 が京都を発した 3日後 のこと。 つまり 戦乱の勃発を強く憂慮しての決断(太平への祈り)である訳で、この事実もまた、天下に私利で動乱を起こそうとする野心とは矛盾します。(『大日本史料』同日条)

 

(もちろん、新政権下の社会の混乱(民の困窮)には「何とかしなければ…」との思いは抱かれていたでしょうが、手段として人為的な暗殺は有り得ないと思います。(皇位というのは元来「天」が決めるという認識だったので。) そういう意味では、持明院統の上皇は(特に 光厳上皇 は)この頃から密かに、尊氏 が世論に押され 公武が力を合わせる世の中 (上記エピソード参照)が実現し社会が安定する事を期待されていた可能性はあるかも…とは思います。)

 

 

 

…最後に、西園寺公宗 のその後についても一言。

叡慮を受けての尊氏暗殺未遂の果てに「国家転覆」という冤罪で逮捕、さらに解官もされぬまま唐突かつ予想外の処刑という結末を迎えたのだとしたら、それは本当に痛ましい不幸だった訳ですが(公宗の地位で死罪になる事は本来有り得なかった)、この事件によって、西園寺家の家督 は密告の功績で 西園寺公重 のものとなりますが、その後、朝廷が南北に分裂した後、京都に始まった 北朝・足利幕府 のもとで、西園寺公宗の遺児・西園寺実俊 が宗家の家督を取り戻すことが叶います。

悲劇的に夫を失った 日野名子(遺児の実俊が生まれたのは公宗亡き後)『竹むきが記』という日記を残しており、実俊の家督継承に 光厳上皇 広義門院(光厳上皇の実母で、公宗の父方の叔母)の尽力があった事が知れるのですが、日頃から日野名子は 将軍尊氏 とやり取りする縁があったそうで、実俊の家督継承には、尊氏 の力添えもあったらしいのです。 他にも、実俊の元服に 尊氏が馬と太刀を贈った 記録が残ります。(※『竹むきが記』については【水川喜夫『竹むきが記全釈』(風間書房)1972】ほか、『大日本史料』第6編の11 …の補遺)

おそらくは、尊氏 は幕府を再興し将軍となってからもずっと、この事件の事を、そして 日野名子西園寺実俊 の事を気に掛け続けていたんじゃないかな…。 この事件の 真相 に気付いていた 尊氏 は、西園寺公宗が帝への忠義で事件に加担せざるを得なかった事も知っていたでしょうから。 ———と思うのがなぜなのかは、このすぐ下で説明します↓

 

 

6年前の ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ 伏線回収

 

 

さて、上記冒頭 4つ目 のブログ記事で私は、「足利家長(斯波家長)の奥州下向」の分析から以下のように書きましたが…

 

「やはり『中先代の乱』を起こした北条時行の動向、つまりは「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相 というのは、わりと厄介な 極秘情報 だったのだと考えられます。どんな風に厄介かと言うと…「尊氏がそれに気付いている事に "気付かれてはいけない" 」という感じ。」

 

…これはどういう意味かと言うと、尊氏 はすべての裏事情を…「西園寺公宗クーデター未遂事件」「中先代の乱」が、後醍醐天皇の叡慮による「尊氏勢の抹消計画」に基づくものだと気付いていた、別の言い方をすれば、後醍醐天皇が北条残党と結託して尊氏たちを切る可能性 に(少なくとも)この頃から警戒していた と思われるのです。

 

(※鎌倉はこの前年 建武元年(1334)3月北条残党の攻撃 を受けているので、鎌倉の直義 が標的にされる可能性は常に想定していただろうし、それが(偶然にしろ必然にしろ)京都の尊氏襲撃 と重なる最悪の事態を危惧し始めていても不思議じゃない。 …というのも実は、『梅松論』の建武元年の一連の騒動は正に そんな臨場感 で書かれているからです。)

(※鎌倉が落とされたとはいえ 一見 無権威・無謀な反乱軍の蜂起 でしかない「中先代の乱」での出陣に際し、尊氏が後醍醐天皇に求めた 征夷将軍 & 総追捕使 の任命という過大とも思える要求は、従来「乱に乗じて 幕府再興の野心 を持ったため」と誤解されてきましたが、これは後醍醐天皇と内通しているかも知れない北条軍 に対抗するために必要と見越した 尊氏の万全対策だったのです。(結局どちらも却下され、征東将軍とされますが。) すべての 裏事情 を察知していて、かつ直義の不可解なまでの大敗に、そこまでしないと負ける可能性がある事を想定したのでしょう。(最悪、北条が密勅を得ているケースだって有り得る訳です。) 戦の前に 全パターン 算出して 絶対勝利ルート を確保する、安全第一スパコン将軍 ってだけの話、過剰でも野心でもない 当然の要求 です。 尊氏が勅許を待てずに強行出陣したのも、単なる反乱軍以上の危険 を感じ取っていたからでしょう。)

 

(※ついでに言うと、「中先代の乱」で 直義勢 が鎌倉を敗走する際、当時「帝への謀反の罪」で鎌倉に禁籠されていた 護良親王 を連れて行く余裕まではなく(「連れ申すにおよばず」by『神皇正統記』)、直義の命令 で処刑されます。 この理由は従来、研究上様々に憶測されてきましたが(※私のこれまでの考えは上記リンク 2つ目 を)、もしかしたら… 西園寺公宗と同様の運命 により新政権から切られた護良親王を、鎌倉を占拠した北条勢が救出して 手柄 とする懸念、さらには後醍醐天皇から 正式な赦免 を得るまでの間、北条勢の 暫定的な正当性 となり得る危険を考えて、裏事情を知る 尊氏の指示 があっての事だったかも…。 まあそうだとしても「北条勢が鎌倉に向かった場合は絶対身柄を渡すな」くらいの指示だったけど、直義が兄の大敵への「宿意 を果たすにやありけむ」(『神皇正統記』)と言ったところでしょうか。 …というか『神皇正統記』では、西園寺公宗 の処刑に対する 法的な疑問の大きさ に比べて、護良親王 の最期については何ら疑問視されていない感があるのは気のせいだろうか…。)

 

この計画が 奥州の北畠親房・顕家父子 にも既に伝わっているのかまでは分からなかったから、それを探るため、「中先代の乱」鎮圧 "直後" に、足利家長(斯波家長)を 奥州方面 への偵察に行かせたのでしょう。(もし伝わってたら、奥州の北条残党との戦いも足利勢の仕事になる訳で。) ただし、尊氏が 陰謀に気付いている事 を隠すため(=無駄に敵対しないため)、表向きは「奥州の足利領地のほのぼの管領」という名目で。

まあ、どうやらこの時点では、奥州にはこの陰謀はまだ伝わっていなかったようですが(北畠軍も当初、奥州で蜂起した北条残党と戦っているなどしてるので)、しかしいつ奥州にも計画が伝えられ、鎌倉の足利勢 北から も攻められ始めるか分からない、それで、陸奥国の国府「多賀」の "南" 足利家長(斯波家長)を待機させ(表向きは、奥州斯波へ向かう途中でぐずぐずしてる風)、同時に "早くから" 在地の相馬一族 を誘っていた のではないかと。 …そう考えていた訳です、この記事を書いた6年前の私は。

6年前、足利家長(斯波家長)の奥州下向を何となく調べ始めた時は、まさか 尊氏 がここまで 何でもお見通し深謀遠慮先の先まで読む能力 があったなんてと驚いたものですが、まあでも「観応の擾乱」の尊氏 はもっとすごいよ。一人だけ見てる世界が全く違うレベルのニュータイプ将軍 やで (´・ω・`)

 

(以前から私が語り続けて来た 足利尊氏像(能力・性格)は、一般の説やイメージと違い過ぎて、単なる素人の思い込みだと思われているかも知れませんが、このように 本当に本当の史料的事実 であり、地道で独自な研究結果 です。)

 

 

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以上、雑に語るはずが長文になってしまい精魂尽き果てました。( "・ω・゛)ヨボーン

とはいえ 建武新政期の実態の誤解 には年来モヤモヤが止まないので、もう一度まとめると…

 

尊氏 に対抗心を燃やしていたのは当初は 護良親王 のみだったが、しかし、天下一統(公家一統)で始まった新政権は早くから 混迷 を極め、直義 が下向した 鎌倉 に予想を超えて帰伏する 武士たち と、もともと武家の跋扈に非難ごうごうだった 公家の不満の増大 を背景に、武家政権復活を期待する武士たちからの 尊氏=頼朝視の世論 へ危機感を抱き始めた 後醍醐天皇の叡慮 のもと、尊氏暗殺計画 が繰り返されていった。

 

…というのが時系列に沿った実態です。

 

(ただし 後醍醐天皇の心変わり には、周辺の奸臣・讒臣(悪いやつら)の暗躍が相当にあったと思われます。 …というのも、北畠親房 『神皇正統記』で、尊氏 が寵幸を受け昇進も甚だしい事に対して「(先祖が)頼朝 の親族だからって優遇・重用する必要なんて無し!あんなの ただの家人!ただの頼朝の家人!!とすごい執念で批判していて、それはつまり、やっぱり世の風潮は 尊氏=頼朝 だったんだ…と分かってしまう訳ですが、この書き方からするとどうやら、当初は 後醍醐天皇 もそれを 好意的 に捉えていたようです。(頼朝再来のような部下を持つ事は、本来は愉快な事だと思います。ただしこの「よりとも」は(幕府創始者の意ではなく)武家の棟梁 という意味止まりで。) しかし武家に不満を持つ奸臣たちが「尊氏に野心あり!」の讒言を繰り返したことで、いつしか芽生えた 疑いの心愛憎 を反転させてしまった、と言ったところでしょうか。)

 

 

つまり、「尊氏が幕府再興の野心を見せたから → 周囲が危険視して潰そうと思った」のではなく、尊氏を頼朝視する世論 が盛り盛りに盛り上がりつつあったから → そのウェーブを世論ごと潰すために尊氏がターゲットにされたのです。 (新政権の失敗の八つ当たりが尊氏に向けられるこの理不尽のやる瀬無さ… (´・ω・`) )

 

非のない尊氏を討つための計画だったから、(護良親王にしろ、西園寺公宗にしろ)陰謀が露顕するたびに 真相ごと揉み消された のでしょう。 建武元年(1334)からの 尊氏暗殺計画の一連 は繋がっていたのです。 その一連の終章が「中先代の乱」であり、同時にそれは、時代の本当の始まり となりました。

 

 

「中先代の乱」は、「尊氏暗殺成功」という条件が揃わぬままに強行された 未完の作戦 だったがゆえに、目的や見通しがいまいち判然としない短命の反乱に終わりましたが、結果的に見れば「尊氏暗殺計画」の決定的な転換点 となります。(※事の経緯は上記リンク先 3つ目 を)

 

新政権側 では、秘密裏の計画 → 公然の討伐

尊氏側 では、気付かない振りしてやり過ごし(by 尊氏)→ ブチ切れて新田に宣戦布告(by 直義)

 

つまりこの乱を境に、裏での一方的な暗殺 が、表での双方向全面決闘 となった訳です。 いや~ 昨日まで 鎌倉武士 だった奴らをなめちゃいけないね! 「表出ろ」を最初に口走ったのがまさかの 直義 というのがあれですが… (´・ω・`) しかも相手が 新田義貞 とか二次創作的に熱すぎて、当時も 全建武がノーマーク の展開だったのではなかろうか。(これで新田義貞は、実際の存在感以上に歴史に名を残すことになったと思う。)

つまり、未完の二十日として散華した「中先代の乱」 も、南北朝動乱期に残した 偉大なる歴史的遺産 という意味においては、その存在理由を極大値に至らしむると言え、ここに 中先代のlegacy を一言にて刻むとすれば———

 

(新田義貞に対する直義の)「 表 出 ろ 」

 

…いや「お・も・て・な・し」じゃないんだから、なんで 北条時行尊氏 も関係なくなって 直義新田義貞 のPK戦になってるの本当に意味不明。 やっぱり鎌倉武士は Japan の誇り です。

 

 

長らく 真意 が埋もれていた「尊氏なし」という言葉のかけらから、当時の全景があざやかに蘇る瞬間に立ち会えたことは、誠に尊氏ファン冥利に尽きる僥倖でありました。 たった一語で「建武の公武水面下バトルの実態」「尊氏の注目度&頼朝度&突出度」という当時のリアル世情を証明してくれる流行語 を編み出した公家たちは 天才 だと思う。 おまえら本当は尊氏のこと好きだろ、好きなんだろ (´・ω・`)

 

 

 

尊氏 ☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆ あり!

 

 

 

以上、「687年前の冤罪を晴らせ!」との将軍命令があっ…たかどうかは分かりませんが、尊氏さん に代わって 当時の追憶 を私なりに頑張って代筆致しました。

 

そんな訳でもし、足利尊氏研究 ないし 室町幕府研究 の発展を願う方、あるいは 西園寺公宗の名誉回復 を願う方で、この「西園寺公宗クーデター未遂事件」と「中先代の乱」の真相 を学術論文や著作に引用・反映したいと思われる方がいらっしゃいましたら、是非ご相談下さい。

 

(関係のない方には失礼になりますが)、 無断盗用という卑怯な事だけはやめて下さい。人生削って命費やして得て来た研究成果です。 その努力がどれほどに大変なものか、研究や執筆をする人なら分かるはずです。(`・ω・´)

今までずっと黙っていましたが、研究やアイデアの盗用がなくなる世の中を願って、声を上げようと思います。

↑もう怒るのやめました (´・ω・`) 2022.5.21

 

 

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