こんにちは。 明応世代の将軍 足利義材(→ 義尹 → 義稙 に改名)と、その宇宙一の忠臣 畠山尚順 について、割とどうでもいいTwitter投稿分をまとめておきます。
まずは 義材(よしき)の小ネタ2件。
(※義材の 第2次将軍期 とは、第1次将軍期に『明応の政変』で京都を脱出→諸国流浪の15年を経て、永正5年(1508)6月に京都凱旋を果たしてからの 約13年間の再京都時代 のことです。 義材や畠山尚順について詳しくは、私の 過去ブログ や 当ブログ の「サイト内検索」⇒「尚順」で検索すると大体出て来ます。)
永正の義材第2次将軍ライフ
『守光公記』永正12年正月29日「時々飛雪吹嵐…室町殿内々御裹頭ニテ買物之由、風聞有之」
雪の散る中、変装して街に買い物に出る将軍。義材あほ過ぎて吹くww しかもバレてる。変装意味ねぇww— m (@muromarockR) February 21, 2018
民草に混ざって お買い物公方義材。 きっと15年の流浪年間に、民衆と触れ合った日々が恋しかったのだろうな。 でもさらに…
以前twitterで、山口県防府市の「宇佐八幡宮」の伝統「腰輪踊」なるものを知ったのだけどさ、永正5年に義材が大内義興と共に上洛する際(or在周防時)、戦勝祈願に義材が奉納したらしい。 てゆうか、太刀とか馬とか法楽和歌なら分かるけど「踊り」ってw …とか思うじゃん。でも
— m (@muromarockR) March 4, 2018
永正の義材第2次将軍ライフ
『後法成寺関白記』永正6年3月18日「午刻参内...大樹両三度被舞、時宜快然云々」→「参内して義材三度舞う、めっさ盛り上がる」
内裏で三度舞った男、足利義材。— m (@muromarockR) March 4, 2018
この時の参内では、昼の12時から夜明け前まで入り浸って後柏原天皇の勅題で和歌会してむちゃむちゃみんな盛り上がって三条西実隆が「千秋万歳、珍重珍重…千載一隅!!!」って感激しまくるくらいにはめちゃめちゃ良い話だった。
— m (@muromarockR) March 4, 2018
「宇佐八幡宮」の踊り奉納も、普通の神楽とかだったら記録には残っても「伝統」として500年も受け継がれないだろうに、つまり義材はこの時自分で踊ったんじゃないかと疑ってる。
— m (@muromarockR) March 4, 2018
踊る公方義材 であった。
ところで「腰輪踊」って、山口県内の他の地域でも色んな形で受け継がれている伝統文化らしいのですが、おそらく室町の当時も 何かしらの民草の踊り があって、周防国滞在中にそれを見て知っていた義材が、見ているだけに耐え切れず、源氏の氏神 八幡大菩薩 の神前で自らノリノリにダンシング → そして伝説となる… とか有り得そう過ぎて困惑 (´・ω・`) みんなで一緒に踊ってた疑いすら濃厚。 愛すべき 庶民派公方義材 であった。
ところでここ最近、室町一のマイナー公方足利義材(義稙)の注目度がにわかに上昇気流ですか、近年の研究動向(といっても2018年2月時点)について一言、畠山尚順擁護 をしておこうと思います。 草の根 畠山尚順研究員 の一人として、ネットの片隅より愛をこめて (`・ω・´)ゝ
てゆうか明応関連の論文ってさ、少し昔のは義材陣営に冷たいのが多くて読むの勇気要るんだよね。京兆専制論全盛期のとか。 でも最近は義材復権が進んで来ててかなりマイルド。義材押せ押せ系まで出て来て半ば燃えてくる、萌えてくる。
— m (@muromarockR) February 25, 2018
でも義材上げが進んで来たのは嬉しんだけどさ、今度は畠山尚順の扱いのみじんこ振りがめっさ気になって仕方ない。 義材と共に、大内義興と細川高国の評価は上がっているのに、なぜか尚順評だけはいつまでたってもみじんこ。申し合わせたかのようにみじんこ。
— m (@muromarockR) February 25, 2018
なんでだろう…って思って、義材関連論考をいくつかチラ見したらさ、永正5年4月27日→6月8日の義材の上洛&入京を実現させたのは「大内義興と細川高国の功績、超功績」ってされてるのね。…で、尚順は「大した事はしていないけど)畠山尚順も駆け付けた」みたいなおまけ扱い。ズコー
— m (@muromarockR) February 25, 2018
大内義興はその通りだからいいとして、細川高国は「反澄元派を糾合して、義材が帰還できるよう、京都(もっと言うと畿内)における地盤を整えた」みたいな認識。…おいおいおいおい、その地盤整備の後ろ盾&義材との仲介をしたのは誰だと思ってるのよ!!そこすっぽ抜けてるわよ!!
— m (@muromarockR) February 25, 2018
細川高国は永正5年に入ってから澄元に疑われ始めて、3月17日に遂に袂を分かつ訳だけど、義澄擁する澄元から(何の権威的背景も無しに)離反したら浪人になるだけだし、確実な見通しが無ければ反澄元三好の家臣達も高国についてく訳ないはずで。その算段を整えたのは尚順以外有り得ないよね?ってゆう。
— m (@muromarockR) February 25, 2018
細川高国権勢家説だと「惣領の地位欲しさに戦略的に尚順と結託した」ってなるのかも知れないけど、高国の性格的にそれはどうだろう…と思う私としては「澄元に疑念を抱かれ窮地に立たされた高国を、尚順が拾った」くらいに思ってる。
— m (@muromarockR) February 25, 2018
姉婿お義兄さんな上に、首の皮一枚状態の僕を救ってくれた天使なお義兄さまぁぁぁーーーくらいの立ち位置だったんじゃないかって思ってます。正直言うと。(言い過ぎ。) まあ、その後もっと大変な日々が待ってるんだけどね。京兆家なんて簡単に背負うもんじゃあないね。頑張れ高国!
— m (@muromarockR) February 25, 2018
細川高国 は権勢家みたいに言われてきましたけど、応援してあげたくなる苦労人ですよ、実際は。 いやまあ高国はどうでもいいんだけど、畠山尚順 は色んな意味ですご過ぎる 奇蹟の人物 なのに、学術的にはホント研究されていないのですよね。。 だから自力で史実に精通した ネットの草の根尚順ファンたち のみぞ知る、地中深く眠る最後の金脈、ダイヤの原石中の原石中の原石です。(だから今のとこ、ただの石ころ過ぎて蹴飛ばされてる。)
…以上、明応世代関連のTwitter投稿分のほんの一部でした。
ところで『明応の政変』については他にもまだまだ気になる事がてんこ盛りでして… その中でもベストオブ秘蔵の "気になる" は、「未だ知られていないすごい形での「密勅」があった」というもの。 以前ツイートで軽く触れたのでリンクを貼っておきます↓
その1、その2 (←さらさみさ様とのリプライもご覧ください。)
まあ、この時代はマイナーなので、普通には「素人の妄想」と思われるかもですが、しかし多少なりとも明応関連の学術的知識のある人が見れば、これが(何かは知らんが確かに)史料的根拠のあるかなりやばい何か、である事が直感的に分かるに違いない~と思い、室町の真実解明を願う善良な研究者様に出会えたらなぁ~との奇蹟を夢見ていたのですが、Twitterで呼びかけたとこで、今に至るまで何の反応もありません (´・ω・`) ...
室町の為 にも、日本の歴史の為 にも、生きているうちに論文化が出来たらと思っているのですが。
(「密勅」ですので、『明応の政変』当時の 公武関係の実態解明 に直球で切り込む大スクープです。)
うん、まあ常識的に考えたら「素人の研究成果を真に受けるプロなんていない」と一笑に付されそうですが、しかしまず(自分で言うのも大変おこがましいですが)研究成果については本気でプロの水準の事をやっています。(素人妄想ゼロの厳密な思考を厳守、「AIがやっても同じ解になる」をモットーに史料分析しています。)
それに…それにですよ、「権威も肩書も経歴も関係ないフラットな協力体制で、これまでにない新しい研究が飛躍的に進化!」…なんて、実に 室町らしくて、有り得なくて amazing で漫画みたい で、そんな奇蹟が今の時代に実現したら、こんなに面白い事はないではないですか~とか思うのです。 そんな事を可能に出来る 柔軟 で ユニーク で 常識を超えた発想 が出来て 日本の歴史の明日 に責任を抱く方々、いらっしゃいませんでしょうか。。
「明応の密勅」以外にもネタてんこ盛りにありますので。 特に「初代将軍 足利尊氏」に関しては、一生涯が丸ごと日本遺産みたいな事になり得る可能性を秘めています。(なので一個人ではとてもじゃないが扱い切れません。)
10 Responses
明応の密勅について、毎日新聞に連載されている「室町の兄妹・流れ公方と忘れられた尼」という記事に載ってるようです。
有料記事なので肝心な部分は読めてないのですが、一応ご報告を。
>AFL様
コメントありがとうございます!本サイト管理人mです。
お教え頂いたサイトを見に行って参りましたが、有料で残念ながら私も読めず。。
タイトルだけで妄想たくましく想像するまでが限界でしたがしかし、
足利義材・畠山尚順記事にご興味をお持ちくださったその一点だけで感激です。
相変わらずマイナーで知る人ぞ知る時代ですが、研究が進む事を願って止みません。
初回登録だと1ヶ月無料というので当記事を読んだのですが、知らなかったことや(多分)論文などに反映されてない事柄が多数あり、めちゃくちゃ良記事だと思いました。
ご返信ありがとうございます!
一次史料ベースの論説とは、益々興味深いですね!!是非とも読みたいところですが…
今見たら初回1か月は99円とありましたが、実は通常の月額はとてもじゃないが捻出できないど底辺でして。
契約継続の可能性が1ミリもないのに1か月お試しするのも気が引けますし、解約以降の追加記事が二度と読めないのも悲し過ぎるので、残念ながらタイトルだけで夢見て終わるしかありません…(´・ω・`)
経済諸々の事情で最新研究を追う事も叶わず脱落せざるを得ませんでしたが、義材や尚順が話題になったり、興味を持ってくれる人が一人でも増えてくれると本当に嬉しいです。
草葉の陰から応援し続けます!
おそらく管理人様が仰りたかったことの一端が
「足利義材の「義尹」改名の政治的意義」
(『日本歴史』第906号)
で述べられていて色々と腑に落ちました。
自分はyoutubeでこの論文を読んだので複写した物は所持していないのですが。
あとついに義材と尚順の論文が手に入るようになったのでそれも読みながら各々思った次第です。
公卿補任が義材が明応9年まで将軍在任してたと記述されてたのはそういうことだったのかと…。
>AFL様
こんにちは管理人mです、コメントありがとうございます m(_ _)m
義材や尚順関連の論文をお読みのところ、拙ブログを思い出して頂き大変嬉しいです!
ご紹介頂いた論文は、どこかでタイトルだけチラッと目にしたものの未読でしたが、とても興味深そうな内容ですね。
私も是非いつか読んでみたいと思います!
教えて頂きありがとうございます。
義材には本当は味方が沢山いた事がみんなに分かってもらえる日は近いかも知れませんね、、嬉しい事です。
何度も失礼します。
義材が同性愛者だった可能性があるという記事を読んだのですが、管理人様はどのようにお考えでしょうか…。(しっかり根拠となる史料も挙げられていました)
第二次政権時に山名豊重の娘が懐妊したと「厳助往年記」にありますが、そんな大事なのに他史料では確認できないのがいまいち謎なので。
彼が政変の際に一部の大名や多くの奉公衆から見放されたのも(クーデター政権の工作もあったにせよ)そういう理由があったとすれば割と納得できます。
鬱陶しければ返信不要ですので何卒
>AFL様
こんにちは管理人mです m(_ _)m 少々返信が遅くなり申し訳ありません、、
いつもコメントありがとうございます!
永正十二年の義稙側室の懐妊の件は、他の史料にも記録がありますし伊勢貞陸も関わっていますし記述も詳しいですからね、、(;´・ω・)
例えば創作や想像なら自由だと思いますが、その際は史実に反する事を注意書きで明記する事を全力でお勧めしたくなるくらいには可能性は低いかと… というか、創作なら「両性」とした方が、史実を否定しない範囲で自由度が上がっていいんじゃないかな~とか思ってしまいますが(笑)
現実的なところで言えば…、
クーデター政権側には細川まさ〇もと(伏字に失敗しました)がいますし、一方的に嫉妬されていた可能性とかはあるかもとは思います、、
(義材はあくまで部下として畠山尚順を可愛がっていたのだとしても、まさも〇とさんからしたらそれはそれは気に食わなかっただろうな~と(´・ω・`)… )
ただし、細川政元は政変の真の首謀者ではないので、この事が原因で政変が起きた…という訳ではありません。(政変の数ある要因の一つ、ではあったかも)
いつも返信遅めですみません、、
気長にお待ち頂けると大変嬉しいです!宜しくお願い致します。
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追伸:
先日ご紹介頂いた論文、まだざっとですが拝見致しました。
(「足利義材の『義尹』改名とその政治的意義」(日本歴史 2023年11月号))
後土御門天皇の宸筆については以前から知られていましたが、ただ私もどの文献で見たかが思い出せないくらいには知名度・注目度の高くない情報だと思うので、こうして主題として論文で詳しく考察された事は本当に素晴らしく、大変に有り難い事だと思いました!
将軍義材の再考・復権の画期になってくれることを願って止みません。
義稙室の懐妊については他史料でもちゃんと記されていたのですね。それは失礼しました。
足利将軍の室の服装について記されている史料「曇華院殿装束抄」にて義材の妹である祝渓聖寿が義晴室の慶寿院に語った内容としては、兄の義材ではなく50年前の記憶があやふやになっているであろう義政側室の服装について語ってるようなのです。
それと実隆公記にも永正5年12月に「柳営御台実事、曇花院被申之子細、密々有仰事、不能記之」といった記述があるらしくて。
「永正十三年記」には御所を訪れた三宝院義堯に御供した僧が食事の配膳役に男性しかおらず驚いたなどという記述もあってどうにも嘘とは思えないんですよね。
政変中やその後の政治情勢に関しては小池辰典・車谷航・森成史氏などが近頃頻繁に論文を出されていて急速に研究が進んでいるように思われます。
細川政元に無断で一部の内衆が政長流畠山家の排除を狙ったとかつて管理人様が仰っていましたが、畠山基家から河内十七箇所の所領を譲られた上原元秀と細川政国・政賢辺りがそれを主導したのでしょうか…。政元が知らないうちにそのようなことをできるのか疑問ではあるのですが。
だいぶ長文になってしまったのでここで一旦切ります。
>AFL様
詳しいご返信ありがとうございます!管理人mです m(_ _)m
そうですね、歴史研究というのは考察途上の段階では、同じ史料から様々な解釈が想定出来て、それが醍醐味なのでありロマンなのだと思います。
ただ、今回の件では例えば…
義材(義稙)は永正12年12月2日に三条高倉の新第に移りますが、それに関する史料に「今日より女中御参」とあり、女性は祗候しているようです。
『永正十三年記』のご指摘の記述は、「女中衆が(新御所に)祗候しているから、配膳は女中衆がするのかと思ったら御供衆だった」「その理由は、未だ常の御所に御座してないから」(←ちょっと意味が取りづらいですが、おそらく単に便宜上の不都合かと?)という感じだったようです。。
なにか否定的な意見になってしまい大変申し訳ありませんが、あくまで私の解釈と捉えて頂ければ幸いです。
私も現在はあまり時間が取れず、史料を調べるのも限界ですみません、、
「明応の政変」時期の上原元秀の特殊(?)な立ち位置や行動については例えば…
【横尾国和『明応の政変と細川氏内衆上原元秀』(『日本歴史』第427号 1983年12月)】
細川家内衆の内部対立や、主君細川政元との不可解な不一致(適当な表現ですみません)は、割とかなり以前から難解ですよね…
今新たな研究者の方々によって「急速に研究が進んでいるよう」とのこと、大変嬉しいです!
私も本当は研究を再開して彼らの真実を、声を届けたい思いでいっぱいですが、今は草葉の陰から心で応援をするので精一杯です、、 |ω・`)