こんにちは。 尊氏直義時代の「建武新政期」~「中先代の乱」あたりの実態について、以前から気になって気になって仕方なくなっていた事を文章にしておこうと思います。
まずは、過去の関連ページのリンクです↓
★本サイト『2-2』「幕府創生、本当のところ」(2014.3.29、12月一部改訂)
元弘3年(1333)鎌倉幕府終焉~建武新政期~室町幕府誕生あたりの時期の概要
★本サイト『2-2』「東国へ駆ける」(2014.3.29、12月一部改訂)
建武新政期の京都における「護良親王による尊氏暗殺計画」~「西園寺公宗のクーデター未遂事件」~ 鎌倉での北条残党の反乱「中先代の乱」
★本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」(2014.3.29、12月一部改訂)
「中先代の乱」鎮圧後、鎌倉の足利勢が、京都から難癖つけられてゴタゴタする~(中略)~「竹之下・箱根の合戦」
★『Muromachi通り』「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)
「中先代の乱」鎮圧後の時期の、足利家長(斯波家長)の奥州下向 にまつわる不可解、そこから浮かび上がる「中先代の乱」と「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相(尊氏が察していた事)を予告程度に言及
… 上の3つ は初期の頃の総論的なもので、4つ目 のブログ記事は詳細な史料分析によるかなりマニアックな謎解きです。 (※なお、以下に述べる新真実は去年4月に初めて気付いた事なので、上記の文章には反映されていませんすみません。)
さて、言いたい事を全部正確に言おうとするとまた時間も人生も膨大に無駄遣いになるので、以下、出来るだけ雑に語りたいと思います。
まず、上記リンク先でもこれでもかと強調してきましたが、「建武新政期」の実情 において、私が何度でもしつこく訴えたいのは「足利尊氏が暗殺ターゲットにされ続けていた事実、軽視され過ぎだよね??」ってことです。
尊氏さんが強運過ぎて 結局何ともなかったから(暗殺されかけまくってたこと)忘れられがち なんでしょうが、でもそれじゃあ、尊氏が何の理由もなくただの野心や我儘から「建武新政権から離反した」ってなっちゃうじゃないですか! あまりに謂われなき汚名過ぎていつもモヤモヤしてる (´・ω・`)
尊氏さん一人がやたら陰でいじめられまくってたのに、「いじめられっ子は黙って我慢しろ、逃げたり反撃したりしちゃいけない」みたいな風潮ひどいと思います!! てゆうか、完全に いじめた方が悪いよね? なんで尊氏さんの 正当性になる史実 は スルーされまくり なの? 不公平過ぎるよね?? (尊氏の強運と足利軍の戦闘力のが不公平だろ、とか言わない。)
鎌倉幕府倒幕が 元弘3年(1333)5月 で、既に 翌6月頃 から 護良親王 は尊氏を討とうとしていた訳ですが(『保暦間記』『太平記』 ※ただしこの時点では、後醍醐天皇は尊氏討伐に賛同していません)、これ以降、「中先代の乱」で尊氏が鎌倉に向かう 建武2年(1335)8月 までの間の 新政権期の京都の実情(物騒さ的な意味で)を、『梅松論』より抜粋しますと…
【元弘3年(1333)】
「天下一統(公家一統)」の世となるも、約半年後の年末時点で「公家と武家、水火の陣にて元弘三年も暮れにけれ」という、しょっぱなから 水火(=むっちゃ仲悪い)状態。
【建武元年(1334)】
ほぼ年始から「世の中の人々心も調わず(=公家と武家の歩調はからっきし合わず)、万物騒がしく見えしかば、此のままにてはよもあらじとおそろしくぞ覚えし(=このざわつきまくり感、このまま何もないってことは よ も や 無いだろう)」という世紀末寸止め状態。
で、そんな中、護良親王・新田義貞・楠木正成・名和長年 が「ひそかに叡慮(=天皇の意向)を受けて(尊氏暗殺のため)打立つ事たびたびに及ぶ」(でも尊氏護衛の足利勢が大軍で、真っ向勝負は勝ち目が無いので、後醍醐天皇の臨時の行幸を装って無為(=何事も無い風)に見せかけて隙をみて奇襲、などという計画だった。) …そんなんなので「京中騒動して止む時なし」
そして6月には 護良親王 の軍勢が 尊氏の御所 に押し寄せるとの噂が立つが、足利大軍勢が尊氏邸を警護したため未遂に終わる。(→ その後10月に、護良親王は帝位簒奪の罪で捕らえられてしまう。)
【建武2年(1335)】
「かくして建武元年も暮れければ、同二年(1335)天下いよいよ穏やかならず」
(この年の6月に「西園寺公宗のクーデター未遂事件」、7月に鎌倉で北条残党による「中先代の乱」、8月に尊氏が鎌倉鎮圧のため京都から出陣。)
(※ここで言う「武家」はまあ主に旧鎌倉幕府勢で、後醍醐天皇の近臣の武士たちはある意味「公家」側と見る事も出来るけど、(従来の)公家衆からしたら新興の武士であり不満の対象、くらいの感覚でよいかと。)
(※なお、「公家一統」と言った時の「公家」は(貴族階級としての公家衆の意ではなく)「天皇、朝廷」という本来の意味になります。 つまり建武の新政が「公家一統」であるというのは「鎌倉時代のように幕府は立てず、 天皇主体の朝廷に一本化する」という意味であり「政治に関与するのが公家衆だけ」という意味ではありません。(実際、後醍醐天皇は武士階級を多用しています。) …詳しくは【高柳光寿『改稿 足利尊氏』(春秋社)1966】(初版1955)…のp.53-54参照 )
…という訳で、この のっけから執拗な尊氏ターゲット感、なしてそこまで…という感じですが、邪魔だから消そうとして裏目に出た → どう見ても 足利勢を離脱させたのは新政権側 だよね、ってゆう (´・ω・`) いじめが無かったら、足利勢の離脱は起きてないと思います!
「中先代の乱」後、鎌倉にいる 尊氏 に 後醍醐天皇から帰洛命令 が出る訳ですが、『保暦間記』によるとその時でさえ、京都では帰って来たところを暗殺しようと企んでいた、ってゆう。 護良親王(※この時点で故人)の旧臣が「尊氏には謀反の意思がある!」と嘘ついて、新田義貞 を引き入れて尊氏暗殺を計画してたらしいですが、後醍醐天皇の帰洛命令も「関東勢はみんな弟の直義に任せて、尊氏だけ 一身で急いで京都に馳せ参れ」というもので、おいおいおいちょっと殺す気満々感が露骨過ぎるよ!もう少し隠そうよ! (直義がブチ切れて「打倒新田義貞!!」の軍勢催促爆弾を全方位発射したのも当然よね。)
よく「なぜ尊氏たちは建武新政権から離反したのか?(なぜ後醍醐天皇に背いたのか?)」という点が疑問視されますが、なぜも何もあったもんじゃないでしょおおおぉぉぉーーーーー!!! 現実 見てよ! 建武の自業自得 よ!! …と言いたい。
本来問うべきは「なぜ建武新政権は尊氏たちを追い出したのか?」だと思います。(…まあ消すつもりであって追い出すつもりはなく、「中先代の乱」のせいで取り逃がしただけなんだが。 (´・ω・`)えぐい )
というか、初めからこんな状態でも 約2年間も京都で耐えていた尊氏さん は、本当はみんなと上手くやりたくて頑張っていた のだと思うのですが。 野心とか謀反とは 真逆の心境 でいたんじゃないですかね? 実際、従順にお利口に親愛なる後醍醐天皇に仕えていますし、そもそも、もしそんな気を少しでも見せたら、謀反の罪で嬉々として討伐されているのでは? 尊氏に非が無かったから(公然の討伐じゃなくて)暗殺という手段を使っていた訳で。
護良親王の尊氏邸襲撃計画について、流石にひどいので 尊氏 が 後醍醐天皇 に訴えたら「(尊氏邸の襲撃計画は)全く叡慮ではない、護良親王の(単独)張行」と言って、あくまで後醍醐天皇とは無関係の計画として護良親王のみが罰せられたのですが、うーん…なんとも言い難い真相うやむや感で、非のない尊氏を討つ事への後ろめたさを感じずにはいられない。。 もちろん、後醍醐天皇も当初は尊氏を大変評価し目をかけて下さっていたのですが、讒臣(ざんしん)どもが…はぁ。。
さて、では なぜここまで尊氏だけがターゲットにされたのか?という事ですが…
それは、上記のような 公武水火 の状態に加え、建武の新政は当初から政治自体に色々問題を抱えており、まあわりと早い段階で破綻しかけていた訳ですが、そんな現状に、自分たちの思い通りに行かない者達は 不満 たらたらでして…(※以下『梅松論』より)
公家の不満 →「なんか行政はグダグダで朝令暮改でめちゃめちゃだし、幕府方(敵方)だった武士もほいほい許しちゃってさ。 そもそも、後醍醐帝の叡慮にて関東(鎌倉幕府)を滅ぼしたのは、武家(幕府)を立てない為 だったのに、今、鎌倉では直義の元に東国武士はみんな帰伏して、京都(の新政権)に従わなくなってるらしいじゃん! マジ何のために倒幕したんだよ、新政の意味ねぇよ」
武家の不満 →「何それ公家むかつく。やっぱ 頼朝 再臨しかなくね?」
…という事で、世間が 足利尊氏・直義兄弟 に注目しちゃいまくっていたからです。
(気付けば周りから勝手に頼朝視され始める足利さん。←なおこの「よりとも」は、「人間頼朝」ではなく 武家政権の長の代名詞 の意味です。)
公家にしろ武家にしろ、当時の価値観では「また幕府が出来る」という共通認識が当初から 普通に根底にあった(公家は危機感、武家は期待感)…というのは、現代の研究上ではやや盲点になっている気がする 建武の実情 です。
え、でも 武家の棟梁候補 なら他にもいるんじゃない?新田義貞とかは?…と思うかも知れませんが、実は当時の世間の認識は「尊氏一強、尊氏一択、尊氏=武家代表」だったのです。 なぜそう言えるかというと、その実態を伝える証拠が『梅松論』にありまして、当時公家が好んで口ずさんでたという流行語、それが———
「 尊 氏 な し 」!!
…え、それ意味ちがくね?と思われたかも知れませんが、この言葉は大変有名で「建武新政権の要職から尊氏が除外された事を、公家が噂してた言葉(尊氏いねぇじゃんwwって意味)」だと解釈されていますが、これが実は全然違う意味だったんです。(って事に、去年4月に気付いてめっちゃ驚いた… (´・ω・`) )
この言葉、長らく上記の意味で解されてきましたが、例えば…
【高柳光寿『改稿 足利尊氏』(春秋社)1966】※初版:昭和30年(1955)
【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】※初版:昭和40年(1965)
…この2冊では既に上記の意味になってる。 【田中義成『南北朝時代史』(講談社学術文庫)1979】(※底本:大正11年(1922))に「而して尊氏がこの記録所並に雑訴決断所の員に加わらず、全く除外せられたるは注意を要す。」(※引用 p.110)とあり、これがいつしか「尊氏なし」の言葉と結びつけられたんじゃないかなぁ…と思うのですが、そうするとまあかなり昔から受け継がれて来た認識と思います。
しかし近年(ここ10年弱くらい?)は、「尊氏なし」という流行語があった事は『梅松論』の捏造なのでは?とも言われるようになりました。
というのも、他史料の検証から、実際、尊氏は新政権の役所の要職には就いて無くても、恩賞も沢山もらってるし優遇もされているし鎮守府将軍に任じられているし、雑訴決断所の類の役所はそもそも 尊氏の地位 で配属されるものではなく、尊氏の部下の地位 で配されるものなので(実際何人か任命されている)、そのような背景から…「(新政権の主要ポストから外されたという意味で)「尊氏なし」なんて言葉があったというのは嘘くさい。それは尊氏たちがのちに新政権から離脱した事を正当化するために「(優遇されたの隠して)尊氏は疎外されてた」と主張するための『梅松論』の捏造なのでは。」と推察されて、『梅松論』の信憑性 に疑問符すら付けられてしまっているのですが、実は これまでの「尊氏なし」の解釈の方が間違っていた っていう。 何それとんだ風評被害!!
(そもそも『梅松論』には「尊氏は 叡慮無双(後醍醐帝に断トツで目をかけられて)昇進 は言わずもがな、武蔵国・相模国、その他数ヶ国を賜った」ってちゃんと書いてありますし、実は『梅松論』の「尊氏なし」の該当部分を 素直に 読むと、意外にも、従来の意味に解釈する事は出来ないのです。)
ではその 本当の意味 は…というと、これは普通に『梅松論』を前後の記述を通して読めば分かるのですが、鎌倉幕府が倒れて 公家全盛の世 に戻ると思っていた公家たちが、予想に反して 武士どもが幅を利かせ、思うほど我が世にならない状況に…
「ああもう武家(=武士ども)いらねーー 武家(=幕府)の復活は断固お断り!! マジでやめて欲しい」「武家は無しだよな~、武家は無し寄りの無しだな」「ああ、武家はねぇよw 武家はねぇ」「そうそう、尊氏なし、尊氏はなしでお願いします!」「た・か・う・じ・なしwww マジうけるwwww」
…という感じで誕生した言葉「尊氏なし」を、恨み のはけ口に 内輪で(私的に)好んで口ずさんでいた、と。
要するに "尊氏" は(足利尊氏という個人を指すのではなく)"武家" の 隠語 であり、「尊氏なし」の本当の意味とは「without 尊氏」ではなくて「NO 尊氏」。「尊氏が政権内部にいない」どころか「尊氏(武家)が居過ぎるからいらねぇ!」なのであって、公家サイドからの「武家反対!武家禁止!NO 武家!NO 尊氏!!」という、かなり political に喧嘩売ってる感な 標語(スローガン)だったのです。
って、そんな意味だったのかよ!! (´・ω・`) ズコーーーーーー
てゆうか、こんなふざけた流行語に使われる尊氏さんかわいそすww 完全に陰口じゃん!! いじめひど過ぎ笑えない (`;ω;´) そんな no parking とか no smoking みたいな感じで尊氏禁止するのやめて! 何そのヘイト用語! 国際社会に訴えてやる!! 私ら 尊氏ファン にとっては「No 尊氏, no life」なんじゃボケ!! (なお、尊氏は「No 直義, no life!!」と叫んで鎌倉を飛び出したと『梅松論』に書いてあります。)
というかそんな事より驚くべきは、当時の世間の認識 において「尊氏」は…
「「武家政権」あるいは「武家の棟梁」または「源頼朝」とか「鎌倉」と、当たり前にイコールになり得る言葉だった」
…という事実な訳ですが。 これは結構衝撃的な事実と思います。 建武新政期の実態の学術的な認識に及ぼす影響は小さくない(というか超巨大)と思う。 (つまり、相対的にまた存在が縮小していく 新田義貞 が不憫でならない… (´・ω・`) いや考えようによっては 憎めないキャラ が一層キャラ立ちしたのでむしろ朗報… などという悲報。)
それからまた、「尊氏は将軍としての正統性を示すため自らを源頼朝になぞらえた」とはよく言われますが、これもあくまで「先例や佳例にならう」という祈りの意味 であって、無理矢理で利己的な戦略だった訳ではないのだろうと思います。 尊氏が世間に対して自分を頼朝になぞらえるまでもなく、将軍となる以前から既に、世間の誰もが 尊氏の中に源頼朝を見ていた のですから。(公家からは 危険視 として、武士たちからは 大いなる期待 として。)
それに、当時の武士たちの気持ちになってみれば、まるで 頼朝の再来 のような尊氏に対して「伝説の将軍来たーーー!!」って 自発的に燃えたぎってくれる と思います。(現代でだって、人々は伝説や英雄への潜在的憧れを本質的に持っているのではないかな。)
「人々が尊氏の中に見る頼朝像」に精一杯応えた将軍尊氏は、"伝説の中の理想像" という意味において、人々の期待を叶えたのです。
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さて、ここまでで結局長文になってしまい力尽きましたので、「西園寺公宗クーデター未遂事件」や「中先代の乱」の話(尊氏が察していた事)は、後日また別に語りたいと思います。
(※書きましたこちらです→「「西園寺公宗クーデター未遂事件」の気掛かりと「中先代の乱」の追憶 」2022.3.28 )
それからもし、足利尊氏研究 ないし 室町幕府研究 の発展を願う方で、この「尊氏なし」の真意 を学術論文や著作に引用・反映したいと思われる方がいらっしゃいましたら、是非ご相談下さい。
(関係のない方には失礼になりますが)とにかく 無断盗用 はもう本当に嫌です。人生削って命費やして得て来た研究成果です。 盗まないで!人の努力と時間を盗んで儲けようとしないで!(`・ω・´)
↑もう怒るのやめました (´・ω・`) 2022.5.21
…最後に、上記において既存の説を否定する事になってしまっている箇所が多々ありますが、悪気はないのでどうぞご容赦下さい。(※通説になっているものは特に参考文献を挙げずに、先行研究と分かる表記にしました。)
私は既存の研究成果には常に敬意を抱いています。 それがあるから後人が真実に近づけるのであって、研究においては、どんな新説が生まれようと先人の業績の偉大さが変わる事はありません。
24 Responses
はじめまして。
旧サイトの方を以前から時折拝見しておりましたが、このたび初めて書き込んでみます。
私はブログ・掲示板等にコメントを書き込むことが滅多になく、
そのため読みづらい点も多々あろうかと思いますが、御寛恕いただければ幸いに存じます。
まことに突然、あるいは僭越・不躾ととらえられるかもしれませんが、
管理人さん(mさん、でよいのでしょうか)に少しく感謝の念を伝えたく思います。
私は歴史および歴史学に関してはド素人もいいところですが、
いつぞや、まったくの気まぐれで、享徳の乱に関する本を手に取りました。
そこから色々と読んでゆくうちに足利兄弟に漂着した、と言えば、
mさんほどの方であれば、おおまかな消息をご推察なさってくださると思います。
そして、足利尊氏が地蔵の絵を描いているということを知り、検索をかけて、
旧サイトの足利画伯の記事にたどり着いた、というのが数年前のことです。
そこからは多少南北朝時代に興味を持つようになり、
まことに細々としながらも大日本史料のページをたぐるようにもなりました。
(細々、とは謙遜ではなく単なる事実です。mさんに比べればへそが茶を沸かす水準です)。
そこでたとえば、
建武二年八月三十日条を見て「……奥州管領の任命がいくらなんでも早すぎないか?」と思ったり、
建武二年十一月十日条を見て「……直義が恩賞権を行使してる? なぜ?」と疑問に思ったり、
観応二年八月二日条を見て「……義詮は何をしているんだ?」と首をかしげてみたり、
児戯に等しい勝手な考察もするようになりました。
(もちろんプロが書いた書籍を読む時間のほうがはるかに長いのですが)。
すなわち私の生涯にも一つの彩りらしきものが加えられたのであり、
その恩人は誰かと言えばmさんが間違いなくそのうちの一人です。
これゆえに、ここに感謝の念を表明したいのです。
思えば、もっと早いうちに何かしらの書き込みをするべきだったかもしれません。
それが今となって書き込んだのは、本ブログの別記事を拝読し、
私も何らかの勇気を出してみるべきだと不遜なことを考えたからです。
いきなりこのようなコメントを書き込まれてmさんもさぞかし面食らうことと思います。
読み返してみて、はたして文意が通じるか不安に思うところもあります。
しかし謝意を感じているのは紛れもない本心でありますので、
それを受け取っていただければこれに勝ることはありません。
突然の書き込み、まことに失礼いたしました。
今後のご活躍を心より祈念いたします。
上記のコメントを読み直してみると途方もなくまとまっていない感じがしまして、
少しく追記します。
つまるところ、
mさんのために私も南北朝時代や足利兄弟に大いに興味を持つようになった、
ということをお伝えしたかったのです。
いきなりそんなことを言われてもとお思いになるかもしれませんが、
事実は事実ですでの、どうか、額面通りに受け取っていただければと思います。
度重なる乱文乱筆、まことに失礼いたしました。
>太平記の一ファン 様
大変心のこもったコメントありがとうございます!
太平記の一ファンさんの太平記愛あふれる文章に感激いたしました。
その上、私への「感謝」をお伝え頂き… 身に余る言葉に恐縮しながらも、
私の書いたもので喜んで下さる方がいた事、尊氏直義に興味を持って下さった事は、
本当にただただ心から嬉しいです。
そうなのですよね、
最初は何のことも無い、ちょっとした切っ掛けで気になって調べ始めたら…
予想外にはまって大冒険が始まってしまうのですよね(笑
大日本史料を手繰って考察を楽しんでいらしゃっるのなら、
それはもう室町玄人です!
どうぞご謙遜なさらないで下さい。とても素晴らしい事ですし、
純粋な情熱は何にも代え難い心地よさがあります。
私も情熱のままに、どうにか有りのままの彼らの素晴らしさを伝えたくて
自分が知ったあれこれを、心から美しいと確信した真実を書き綴り続けましたが、
あまり上手くは人の共感を得る事が出来ませんでした。
それでも、太平記の一ファンさんのようなコメントを下さる方がいらっしゃると、
私が彼らを愛した日々も無駄ではなかったと思う事が出来ます。
そう思える事が何よりの救いになるくらいに、今も私は室町が好きなのでしょう…。
改めまして、丁寧に綴って下さったコメント本当にありがとうございました。
「足利兄弟に大いに興味を持つようになった」
↑↑もう本当に、これ以上の嬉しいコメントはありません!!
これからきっとまた太平記ブームが来ると信じていますので、
その時は沢山盛り上げて下さいね!
太平記の一ファンさんの歴史探求の日々が、一層彩りあるものになるよう祈っております。
早速のお返事、誠にありがとうございます。
実を申せば、昨今のブログの更新履歴を拝見したところ、もしかしたらmさんは当該ブログから離れてしまったのかとも思ってしまい、何やら暗がりに呼びかけるような心持ちで書き込んだのですが、mさんから早速のお返事を頂いて、勇気を出して書き込んでみた甲斐があったと思いました。重ねて感謝致します。
そして一度お返事を頂いたところ、mさんにお伝えしたいことがほかにも思い起こされてしまい、こうして書き込んでいる次第です。
一つには、やはり考察結果に対して感銘を受けたことがあります。どの記事に対して、と問われれば色々あって定めがたいのですが、まず一つ挙げれば「新千載和歌集の隠し扉」でしょうか。
聞くところによると足利尊氏が残した和歌数は、中世武家歌人として堂々の第二位であるそうで(一位は鎌倉右大臣……これは別格でしょう)、そのために歌人足利尊氏には注目していたのですが、かといって和歌から何かを探るにしても手の施しようがなく途方に暮れていたところ、mさんの上記記事を拝読し、その考察の鋭さに感服しました。他にも色々と教えられたことが多いのですが、きりがないのでこのあたりでやめておきます。
そして、これは書き込もうかどうか迷ったのですが……本ブログの別記事にて声を挙げられた件についてです。ご本人が「もうあまり怒っていない」とおっしゃっている以上、いまさら話題にするのもどうかと思いましたし、少なくとも私のほうからこの件について何か行動を起こすことはありません(mさんの意思に反することをしたくない、迷惑になることは絶対したくない、という意味です)。ただ、わが国の歴史学会において道理に反したことが行われた、ということを知る人がここにもいるということを、知っておいていただきたかったのです。
(実を言うと……mさんが言っていたのはこの先生ではないか、と本を読みながら思うこともありました。その先生には私の方からは何もしていません。他の場所でも誓って名前も出していません。いかなる意味においてもその先生には疑惑がかかるようなことはしていません。誤爆だったら洒落になりませんので)
既に長々と書いてしまった気がします。
夜分失礼いたします。
追記です。
上記コメントで「誤爆」と表現してしましましたが、
これは決して、mさんが何か勘違いをしているという意味では決してなく、
私「太平記の一ファン」が軽はずみな憶測に基づいて行動を起こしたら大変なことになる、という意味です。
ふと気になってしまいましたので、以上追記した次第です。
失礼致しました。
>太平記の一ファン 様
こちらこそ、思う所を綴って下さってありがとうございます!
太平記の一ファンさんの観察力、感受性、思慮深さに大きな感謝と敬意を抱かずにはいられません、、
お察しの通り、研究の日々は過去のものとなり、ブログの更新は途絶え、
1年ほど前には最後に残った望みにも終止符を打ちました。
「もうあまり怒っていない(別の所で良い事が…」と追伸したのは、実は去年のその頃、
歴史研究を終わらせるにあたり、私が解明した歴史事実のせめて一つでも受け継いでもらいたい…
との願いから思い切って取ったアクションが、予想以上に上手く進みそうな事になりまして、
それで他の事もすべてを許せる気持ちになったのですが、
結果的にはこの件も騙されて(あるいは裏切られて…と言いますか、いずれにしても大変不誠実でネガティブな意味です)それで終わりました。
…という救いの無い話なのですが、
まあこれが運命なら逆らうだけ無駄なのだろうと、諦観するほかありません。
なので太平記の一ファンさんのコメントには "良い意味で" 驚きました。
事実を知っている当事者(私や相手)以外が気付くにはやはり相当な観察力が必要と思いますし、
私は間違ってなかったと思っていいんだ…と、いつしか閉じ込めていた過去がまた少し昇華して気持ちがほどけました。
>「誤爆」の意味、大丈夫です!少しも齟齬無く伝わっております!
お気遣いありがとうございます。
そうですよね、限りなく黒に近くても「グレー」である事を忘れてはいけないし、
たとえ私が「正」であったとしても、訴えや争いを起こす事は私が大事にしてきた歴史を穢すことになってしまう、
まして貴重な室町南北朝期ファンの方に不利な事でも起きたらそれこそ一大事ですから、
太平記の一ファンさんの思慮深さとお気遣いには、本当に感謝感激です。
私はただ、敵対や隠匿ではなく、協力出来たらきっと室町の彼らの為に大きな発展になると、
そう信じ願い続けましたが、それが子供じみた理想論である事もまた今では理解しているつもり…ですが、
「きっと尊氏がそれを望まなかったんだろう」と強引な結論で自分を諭しているのは
やはり諦めが悪いと言わざるを得ないのかも知れません(笑
私も長々と返信してしまい恐縮です。
日々の生活がありますので、ご無理なさらず、
太平記の一ファンさんがこれからも長く室町に、足利兄弟に興味を抱き探求を楽しみ続けて下さることが、
同じ室町ファンとしての私の掛け替えのない喜びです。
※追伸
>太平記の一ファン 様
「新千載和歌集の隠し扉」に興味を持って下さりありがとうございます!
私に対する身に余るお褒めの言葉に、素直な喜びを感じつつもやはり、
そのような美しい史実を彼らが隠し持っていたからこそ、の素晴らしさなのですよね。
本当に、彼らは奇蹟みたいな現実を生きた人達です。
たびたび失礼いたします。
mさんこそ普段の生活がございますので、お手を煩わせるようなことは控えたいとは思ったのですが、それでもご返信を拝読した結果、書かずにはいられなくなりました。
私はmさんの「うれしいこと」という表現を目にしたとき、純粋に私的なことで途方もなく喜ばしいことがあったものだと勝手に思っていました。なんて寛容な人なんだろうとも感じ入りました。それが、ご返信に記載のことのようなことがあったとは思いもよらず、悲しいというか腹立たしいというか、とにかく唖然としてしまい、言葉もありません。
mさんが投じた膨大な努力と資源、その結果としての独創的な考察、数年にわたるブログでの発信、そして何よりも勇気。それに対する返答がこれとは、とても信じがたい事態です。
以下まことに勝手なことを言うようですが、どうか、可能なかぎり、mさんが作成したブログ等は消去なさらないでください。各記事における考察結果を初めて世に問うた人がmさんであるという証拠だけは、道理に従い、何としても残されなければならないと信じるからです。
そしてきっと、私のように、mさんに触発される人も出てくると思います。
ずいぶん僭越なことを言ってしまった気もしますが、少なくとも、私の偽らざる気持ちです。
追伸:
昨今、市中(?)の足利兄弟その他の評価に少し触れました。その結果……
直義は盤石の高評価でした。揺るぎないものがありました。
尊氏は……いましばらく、変人扱いが続きそうです。
>太平記の一ファン 様
いえいえとんでもないです、丁寧なご返信ありがとうございます!
心を痛めてしまう真相で申し訳なかったですが、
共感頂けたこと、大変心強く思います。
私的…確かにそんな風にも取れますね(笑
この「嬉しい事」未遂の件で私が主題にしたのは、
室町中後期の『明応の政変』(1493年)に関するとある研究結果だったのですが、
政治史と文化史が交差した「芸術的な史実」とでも言いましょうか、とても驚きのある話で
理解出来る専門家の方に届いて欲しかったですね、、
そして世の中に、みんなの心に伝わってくれたらと。
でも今になって思うのは、
もしかしたら、明かされてはいけない真実もあるのかも知れませんね…
なので、尊氏の秘密については私が責任を持って墓場まで持って行こう、と
とりあえず心に決めています。
力及ばなかった自分への言い訳ですが「尊氏がそう望むなら…」
>サイト・ブログについて
大変嬉しいご要望ありがとうございます!!
彼らについての研究成果はまだその欠片くらいしか語れていませんが、
ここに綴った文章は確かに、700年ないし500年前の彼らが生きた証の一端であり、
また私が生きた証のすべてでもあるので、出来る限り残していきたいと思います。
太平記の一ファンさんがこのブログを見つけて下さったように、
どこかで誰かが尊氏直義たちを愛する切っ掛けになる事を祈って。
>直義は盤石の高評価でした。揺るぎないものがありました。
大朗報です!!! 私と尊氏が歓喜で号泣です (´;ω;`)
>尊氏は……いましばらく、変人扱いが続きそうです。
「・・・(笑 」
それをどうにかして差し上げたかったのですが、
それもまた私の独善なのでしょう。
素晴らしいご報告ありがとうございます!
こういう情報に触れると、やはり素直に楽しくなります。
少々ご無沙汰しております。
明応の政変については、残念ながら「細川政元によるクーデタ」「伊勢盛時の伊豆入りと同じ年にあった」程度しか認識しておらず(ちなみに後者は「時代整理に便利」ぐらいにしか思っておらず)、
>政治史と文化史が交差した「芸術的な史実」
そのようなことがあったとは夢にも思いませんでした。いえ、書き込んでいる今でも信じられないくらいです。その研究成果が公表されたなら歴史学にとって随分な貢献となったであろう、そして一般に注目されることがあまりない(?)明応年間周辺への一般的興味を喚起する上でも相当な貢献となりえていただろうと思えば、まことに残念でなりません。
>尊氏の秘密については私が責任を持って墓場まで持って行こう、と
>とりあえず心に決めています。
南北朝時代に興味を持っている私としては、こちらも無念の一語に尽きます。しかし「とりあえず」の一言に望みをかけて、若干のご質問をしたいのですが、よろしいでしょうか。
すなわち『難太平記』にある、応永の乱の話の中で出てくる、観応の擾乱にまつわる話についてです。当該箇所はそもそも一義的意味の把握すらおぼつかなく、気になって仕方がありません。
①「大御所錦小路殿の御中違ひの時も一天下の人の思ひし事は……」の一文の後に出てくる、「中御所」というのは、文脈から察するに足利直冬かと思うのですが、正しいでしょうか?
②またその後、尊氏・直義が亡くなった後の話として出てくる、「京都よりは大休寺殿の御申しによりて鎌倉を別に取立て申さると思召しつめられて」という一文の主語は、足利基氏……でしょうか?(足利義詮と迷っています)。
なお上記引用は「世界の古典つまみ食い」http://hgonzaemon.g1.xrea.com/index.htmlのページからのコピペです。
不躾なご質問であることは重々承知しています。また、mさんのご意思を尊重するつもりですので、ご回答がなくても私に思うところは何もありません。
ただ、どうにかして尊氏の秘密に迫りたいと思うがあまり、私などより遥かに誠実かつ熱烈に研究をしてきたであろうmさんに、こうして失礼を承知でご質問するのみです。
追伸:
私は数年間、趣味で油絵を描いていたことがあります。
いまはとんと遠ざかっていますが、かつての経験から思うに……
① mさんがお書きになった絵・イラストは相当上手
② 努力と練習によって描いたらしい
と、勝手に思っていました。
おそろしく失礼なことを言ってしまった気がしますが、
なんとなく共感するところがあったので、蛮勇ふるって感想を書きました。
>太平記の一ファン 様
こんにちは!またまたご丁寧なコメントを頂きまして大変恐縮です。
まずは取り急ぎ、御礼の返信を。
と言いますのも、頂いたご質問については
解答だけでしたらすぐにでも出来るのですが、
この辺の事について、過去にブログで遠巻きに言及した事があったなぁ~と思い、
それを自分で復習がてら見直したいので、少々お時間を頂ければと思います。
今週中には改めてご返信出来ると思います!
>追伸のこと
お褒めの言葉、大変大変恐縮です、、めちゃめちゃ嬉しいです!(滝涙
絵は昔から好きだったのですが(…と言っても落書き程度)
彼らを言葉だけでなく絵でも表現したくて、歴史の研究と同時に初めて本気で訓練を開始しました。
まあ完全に自己流なのと、彼ら以外に描きたいものが無いので
これ以上上達する事も無く終わってしまいましたが、
実は正直言うと、歴史研究と同じくらいのエネルギーを注いで描いておりました。。
(彼らが愛されてほしい、ただその一心で馬鹿みたいに必死になれました 笑)
結局、歴史研究と同様、私の絵もあまり人の心に届く事はありませんでしたが、
彼らを描いていた時間は楽しかったです。
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それではまたご連絡いたします!
しばしお待ちくださいませ。
太平記の一ファンです。
ご返信拝読しました。ご回答をいただけるようで恐縮の至りです(勇気を振り絞った甲斐があったと感じています)。
あくまで私の勝手なお願いですので、どうか、ご自身の時間・健康を害さないようにお願いいたします。
失礼いたしました。
>太平記の一ファン 様
こちらこそ、ご返信(と勇気を)ありがとうございます!
ちょっと埃かぶった記憶を整理してきますー
>太平記の一ファン 様
こんにちは!大変お待たせしてしまい申し訳ありません、
9月3日に頂いたご質問への回答です。
結論から言いますと、どちらも「義詮」です。
>①について
群書類従『難太平記』の当該部分は「中御所と宝筐院殿をば」となっていますが、
この「と」は写本の過程で入ってしまったのだろう誤字であって、
本来の意味は「中御所(であるところの)宝筐院殿(=義詮)」です。
大日本史料に収められている『難太平記』の当該箇所では、
この「と」の横に「衍」と注記されています。(余計な文字、の意味)
「中御所」は、大御所(=尊氏)と、当御所である3代目義満とに対する呼称として、
義満の時代に用いられていたのでしょう。
その時代の書状の文中のほか、
古文書の義詮の判(花押)に後世の注記で「中御所」と書き込まれているものがあったりと、
義詮=中御所の確証がいくつかありました。
>②について
これも大日本史料の『難太平記』の当該箇所の注釈に「義詮 基氏ヲ疑フ」と書かれています。
すなわち(意訳すれば)「京都の義詮は、大休寺殿(=直義)が生前「鎌倉を別に取り立てるよう」に言い残したんじゃないかと疑心暗鬼になっていて」、
それで「御内心は御怖畏有しにや。」(義詮は鎌倉(≒基氏)に対して内心びくびくしてた)という事です。
---
今回ご質問を頂いて、
単に解答だけでなくちゃんとエビデンス的なものも提示しなきゃな~と思って調べたら、
結構色々あって新たな発見が出来て楽しかったです。
(『大日本史料』所収の、『難太平記』の当該箇所の注記については
応永6年10月28日条、第7編4冊の p.175-177 です)
この『難太平記』の記述、現在の通説と上手く合致しないためか、
なんか研究上、見て見ぬ振りされてる感ありますよね(笑
(これこそ真相だと私は思っておりますが。)
この(あまり知られていない)義詮の本質…とでも言いましょうか、
この辺のことをブログでほんの少し触れたのは
バーボンMuromachiの「直義の最期に関するあれこれ(avay様への返信コメント)」とか、
あと「『新千載和歌集』の隠し扉(その3)」の最後でも一言叫んでいますが、、
ただ、これはそれこそ「観応の擾乱」の真相を根本から説明し直さないとならない問題で、
結局私の今生では時間が足りませんでした。。(´・ω・`)
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追伸 >明応のこと
「明応の政変」はまさに伊勢新九郎盛時の伊豆入りの発端ですよね。
この「芸術的な史実」はその真相の新たな一端も伝えていると考えられ、
色々な意味で実にドラマティックです、、
公表の機会に恵まれなかった不遇な史実ではありますが、
太平記の一ファンさんが「残念」と仰って下さったこと、大変に供養となりました。
改めて心より感謝申し上げます。
返信が遅くなってしまいごめんなさい!
拙い回答ですが、太平記の一ファンさんの南北朝期研究に少しでもお役に立てたら光栄です。
>mさん
ご回答のほど、誠にありがとうございます!
こちらこそ、完全にmさんの善意に寄り掛かった質問をしてしまったにもかかわらず、こうしてご回答を頂きまして恐縮の限りです。早速『大日本史料』の該当箇所など確認し、あらためて『難太平記』の文意を確かめてみたいと思います。
>応永6年10月28日条
こんなところに『難太平記』解読のヒントが眠っていたのですね。いや、そもそも『難太平記』の該当部分が「応永の乱」の話のなかで語られていることに鑑みれば、『大日本史料』の応永年間に『難太平記』が現れても一向不思議ではない、むしろ当然とは思うのですが、言われてみるまでなかなか気づかないものですね。
重ねて、まことにありがとうございました。
>太平記の一ファン 様
早速ご覧いただきありがとうございます!
私もさすがに応永はノーマークでした(笑
それでは良き史料の旅を!
mさん
太平記の一ファンです。
たびたびのコメント失礼いたします。
先般ご教示くださった『大日本史料』応永6年10月28日条を眺めていたところ、さらに気になるところが出てきてしまいました。身勝手なこととは承知しておりますが、『難太平記』の当該箇所について少しくご質問させていただければと思います。
もしご回答に時間・余裕がない場合はどうかご遠慮なくおっしゃってください。
それから、ご質問するにしても、こちら側の疑問点・考察を述べてからでなければ礼を失すると思いましたので、その点に留意しながら記述します。したがって、やや長めの文章になりますが、どうかご容赦ください。
まず私が気になっているところを申し上げますと、以下3点に絞られます。
1.『難太平記』原文「大休寺殿より宝篋院殿へうつくしく天下を譲り与へ申させ給へかし」の「うつくしく」とは、具体的にどのような意味か。
2.『難太平記』原文「御合躰いとど定りたりき」とは、『大日本史料』応永6年10月28日条の考証のとおり、正平の一統を指すと考えてよいのか。
3.『難太平記』原文「京都を恨み申す輩」とは具体的に誰(またはどのような属性の人)なのか。
次に、それぞれに対する私の今の考えは以下の通りです(mさんが各種ブログでおっしゃってくれた考察結果を多分に取り入れているつもりです)。
1.について
ここで今川了俊が「うつくしく」と言っているのは「いわゆる放伐や簒奪によってではなく」という意味ででしょうか。
了俊によれば、
(1)打出ヶ浜の戦いにおいて高兄弟を滅ぼしたこと直義を、尊氏が咎めなかったこと
(2)伊豆山から敗走した上杉憲顕を、尊氏が咎めなかったこと
(3)正平の一統を締結したこと
以上の三つは、天下を「うつくしく」義詮に譲り渡すための尊氏の方便(便宜的な措置)であったとのことです(私の解釈が正しければ)。上記の三つに共通することを考えた場合、mさんの「室町的鎌倉旅行記(その2)」の記事中にある、尊氏は「誰も罪人にせずに事態を収拾」しようとしていたとの指摘に引き付ければ、(1)では直義を、(2)では憲顕を、(3)では義詮を謀反人扱いしないための便宜的措置であった、となるのではないかと思っています(同時に、そうでもしなければ「うつくしく」天下を譲り渡すことができないと尊氏が認識していたとも意味するかと思います)。
なお、私ははじめ『難太平記』の全体の論調と照らし合わせて、「うつくしく」の意味は「義詮に、直義の理念を受け継いでほしかった(だからこそ直義や憲顕を強いて咎めなかった)」と解釈するべきかとも思いましたが、そうすると正平の一統との整合が取りづらくなるので、この解釈は今のところ諦めています。
2.について
こちらは、プロによる大日本史料の考証に従うべきである、と今は判断しています。権威主義もいいところの話ですが、遺憾ながら私にはこの考証を否定するべき材料を持ち合わせていません。
なお、私は『大日本史料』応永6年10月28日条を見るまで、当該箇所「御合躰いとど定りたりき」とは、上杉憲顕が幕府に帰順したことを指すものと思っていました。ずいぶんまごついたのは先日のことです。
3.について
こちらは、いわゆる旧直義派(ただし上杉憲顕を除く)として解釈するべきかと思っています。今川了俊が、尊氏は義詮も直義も見捨てがたかった(ゆえに方便をあれこれ駆使した)と証言しているところから察するに、観応の擾乱第二期は、幕府の内情を知る者からすれば、義詮と直義の対立であると認識されていたと推察されるからです。したがって「京都を恨み申す輩」とは、ここは基氏の下にいた旧直義派の諸将と判定してよいのかな、と思っています。
ただしそうすると、のちに対京都強硬派がおおむね関東地場の武将たちになってしまうことと何となく整合が取れなくなりそうで、ここは少し気になっています。
以上、色々と書いてしましましたが、そもそも自分が気になっているところが重要な論点なのかさえ自信がありません。
どうか、mさんのお知恵を少しく拝借したく。
追伸
バーボンMuromachi記事「結願の日」でご紹介があった、
西山美香『武家政権と禅宗 ――夢窓疎石を中心に』(笠間書院)2004
を今になってようやく読みました。mさんのブログで知って以来、方々で参考文献として挙がっているので気になってはいたのですが、近くの図書館に無いから、という理由だけでなかなか読まずにいました。しかし一読して、もっと早くに読むべきだったと悔やんでいます。いろいろと重要な指摘が目につくので、現在再読中です。
しかしこの本の内容に従うのであれば、直義のしたことは言うなれば「国家の再定義」とでもなりましょうか。恐るべき話です。
康永3年に作成されたという「屏風賛」のことも気がかりですので、同書で挙げられていた論文にも目を通したいものですし、『夢中問答集』も読み返したいところです。
以上、mさんのご紹介がなければ恐らく手に取らなかった本ですので、ここで感謝申し上げたいと思います。まことにありがとうございました。
最後にすこし余計なことを。
以前、尊氏と直義の市中の評価なるものをお伝えしましたが、実はこのとき、義詮の評価もすこし調べてみました。結果は、すこし不気味なくらい高評価な意見が散見されました(低評価もありましたが)。中には、義詮晩年の政治姿勢は直義のそれに近くなっていた、という意見まで見てしまいまして、それって斯波高経の政治姿勢のことではないか、とも疑問に思いました。
繰り返しますが私の勝手なご質問ですので、ご回答の有無そのものも含めて、mさんのご都合を優先してください。
>太平記の一ファン 様
こんにちは!大変深い考察に驚嘆いたしました。
>そもそも自分が気になっているところが重要な論点なのか…
どれも相当重要な論点と思います。
一般向けの歴史の概説書だけお読みの知識ではないセンスと経験値…とお見受けいたしました。
ご質問への回答については、厳密さより早さを優先して出来るだけ簡潔に切り上げました。
(本当はこの何十倍も説明が必要な話ではありますが、、)
では早速…
---
>2.について
ご質問「1」に関わるので、「2」を先に回答しますと、
「御合躰」は、観応2年12月からの尊氏直義両軍の合戦の後、
翌観応3年1月初めに二人が鎌倉入りした「尊氏と直義の和睦(合躰)」のことを言っています。
『大日本史料』観応3年(正平7年)正月5日(第6編の16冊のp.16)に、
『難太平記』のこの該当部分が収められている事からも分かります。
応永6年10月28日条の「御合躰いとゝ定りたりき」の直後の注記に
「観応二年十月二十四日ノ条 参看」とあるのは、
この「御合躰」のそもそもの出発点(尊氏軍と直義軍が戦う事になった発端)について教示しているわけです。
>1.について
>ここで今川了俊が「うつくしく」と言っているのは「いわゆる放伐や簒奪によってではなく」という意味ででしょうか。
はい、その通りです!
まあ、放伐と言っても直義は徳を失ってないし、禅譲と言っても義詮に徳は無…(以下黒塗り
「うつくしく」というのは、理念的に美しく…という意味ではなく、
美しく見せる必要があった実際は真っ黒な事態、って事ですね。。
という訳でご質問「2」への回答を踏まえてもう一度『難太平記』を読めば、
尊氏は方便として…
「摂津の合戦の時」「高師直・師泰が(上杉能憲に)討たれた事」
「上杉憲顕が伊豆山から撤退した事」
これらいずれの時も誰も咎めなかった
…という事になりますが、
この「(普通なら)咎めたはずの対象」は、
どれも「直義に属した部下」(直義本人ではなく)を想定していると解釈するのが妥当と思います。
というのも、今川了俊が子孫に宛ててこの手記(『難太平記』)を記したのは、
自身の潔白、正当性を書き残す為でもあり、
応永の乱の一連、義満から了俊に向けられた疑惑への反論として、
京都に対する鎌倉の(正当な)立場を述べるのに、尊氏時代の話からする必要があったのであって、
単に過去の出来事を第三者目線で軍記的に書き残そうとした目的ではないので、
そういった「了俊の視点・立場」を考慮しつつ読むとまた一層考察が捗ります。
(つまり、「部下」である了俊の目線である事を考えれば、
「大御所(尊氏)は敵方に属した部下を咎めなかった」(若干義満への当て付け…)
といったニュアンスが含まれるかと)
>3.について
「京都を恨み申す輩」は、私の結論だけを言えば「(ごく一部を除いた)東国武士」ですね、
少々厳密さに欠ける表現ですが…。
なので、
>のちに対京都強硬派がおおむね関東地場の武将たちになってしまうことと何となく整合が…
こちらについてはご安心下さい!整合性が取れます。
尊氏派・直義派という分類は、これは基本的には現代の研究上の解釈なので、少々注意が必要です。
(その解釈と当時の現実との間に齟齬があった場合、困ったことになる…という意味で)
なぜ私が上記の結論に至ったか…という事の理由ですが、
これは『観応の擾乱』の本当の原因、真相によります。
なので、それこそ『大日本史料』の『観応の擾乱』関連個所を全部読み上げて一から解説…しなくてはならない遠大な問題で、
南北朝期研究を本業に出来る環境でもなければ不可能な話でして、
今の私にはこれが精一杯で、結論だけしかお伝え出来ないで申し訳ありません。。
---
ひとまずご質問については以上です。
「追伸」についてはまた追ってコメント致します!
mさん
太平記の一ファンです。
ご回答まことにありがとうございます!
このところ当ブログを拝見できる暇が取れず、こちらからご質問しておきながらコメント返信が遅くなってしまいました。大変失礼いたしました。
mさんのご教示をもとに早速、『難太平記』の該当箇所を(できれば『難太平記』の全体を)再度吟味したく思います。
>一般向けの歴史の概説書だけお読みの知識ではないセンスと経験値…とお見受けいたしました。
こちらはまったく過分のお褒めですので、どうかお手柔らかにお願いします。
>厳密さより早さを優先して
ここは、どうかお気になさらないでください。こちらが勝手にご質問していることなのですから。五里霧中状態の私としては、mさんの結論部分の見解をお伺いできるだけでも大変な助けになります!
>単に過去の出来事を第三者目線で軍記的に書き残そうとした目的ではない
『難太平記』の再読にあたっては、こちらも忘れないようにしたいと思います。史料を読むにあたってはその史料自体の性格・史料の周辺状況を把握しておかなければならない、とは『難太平記』に限った話ではないと承知しているつもりですが、あらためて、忘れないようにしたいものです。しかし『難太平記』は、一方では公表を予定していないために(今川了俊にしては)必ずしも文意が明晰とは言い難く、また一方では公表を予定していないために歴史の真相の手がかりが含まれる、という手ごわい書ですね。
>今の私にはこれが精一杯で、結論だけしかお伝え出来ないで申し訳ありません。
滅相もないことです。mさんが払ってきたであろう多大な労力を考えれば「結論だけ」お伺いできるだけ、感謝してもしきれないほどです。
>「追伸」について
どうか、御無理だけはなさらないでください(と、書いておきながらmさんの見解は是非聞きたいと思う自分もいます)。
このところ酷く暑かったはずですが、今日9月22日はめっきり涼しくなってしまいました。季節の変わり目かと思いますので、何卒ご自愛の上お過ごしください。
最後になりましたが、不躾なご質問にもかかわらずご回答をくださいましたこと、重ねて感謝申し上げます。
mさん
太平記の一ファンです。
このたび、どうしても気になってしまったことがあって、御見識を伺いたい……と思ったのですが、
すこし気がかりになことがあります。
というのも、その気になったことというのは、
バーボンMuromachiの「直義の最期に関するあれこれ(avay様への返信コメント)」においてmさんが仰った内容にかかわるものであるからです(少なくとも私の記憶では)。むしろ、mさんがその結論にどのようにしてたどり着いたのか、その一端を私なりに考えた、というべきです。
しかし上記の記事および返信コメントは、おそらく当該記事は現在非公開中になっていると思われます(本コメントを記載している中で気づきました)。
とすると、その非公開中の内容にかかわるものをここで書いてしまうのは、たとえ私の考察が間違いであったとしても大いに憚られるところです。とりわけmさんは事情が事情ですので……。
あるいは時期が時期ですので、もしかしてmさんのご対応は私の質問が原因か? と、少し勘ぐってしまっております……(当該非公開記事がいつから非公開になっているかは、確認しておりません)。
今後、ここでコメントを残してよいものでしょうか?
少なくとも、非公開記事にかかわるご質問や発言は控える所存です。
いかなるご回答であっても私に思う所はありません。
いかがでしょうか。
mさん
少しく追記させてください。
上記コメントにて「いかなるご回答であっても私に思う所はありません。」と書きましたが、これに追加して、御事情や御理由を記載してくださる必要もございません。
ただ、ブログの記事が非公開にされていましたので、私自身がどのように対応するべきか、どうすればmさんのご意思に違わないでいられるのか、それについて少々困惑しているのみです。
mさん
何度も何度も大変失礼致します。一度で書くべきなのは重々承知しているのですが……。
もし不都合・問題などがあり、本エントリーにかかるコメントも非公開・削除にするのが望ましいのであれば、私にご遠慮なさる必要は一切ありません。(観応の擾乱にかかわることなので、もしかしたら、そのほうが望ましいかと……)。
>太平記の一ファン 様
コメントありがとうございます!…にもかかわらず
こちらこそ返信が滞ってしまい大変申し訳ありません。
このところまた思う事がありまして、
それと時間が取れないのもあって、徒に日々を費やしてしまいました。
コメントの内容については、どうぞご遠慮なくお書き頂いて構いません。
ただ、解答・解説については十分なものをお返しできない可能性が高いので、
申し訳ないですが、その点はご了承頂ければと思います。
(時間があまりとれない、という理由と、
あとはやはりまだ、過去の剽窃の被害のトラウマが蘇ってしまうので、
当たり障りない事までしかお答えできそうにない、という意味で。)
簡潔な返信になってしまい、重ね重ねお詫び申し上げます、、
頂いたコメントには、また改めてきちんとご返信いたします。
mさん
お返事ありがとうございます! 実は昨晩、就寝直前にブログを覗いて、お返事があったことは知っていたのですが、眠気をおして乱文を書いても仕方ないと思いまして、こうして本日あらためて返信することにしました。
>簡潔な返信になってしまい、重ね重ねお詫び申し上げます、、
滅相もないことです!
お時間がない中でご返信をくださいまして、こちらが恐縮するくらいです!
実を言えば、小心者の私のこと、もしかしてコメントのなかでmさんに大変な失礼を働いてしまい、あるいはmさんの疑心を呼ぶようなことを書いてしまい、それで一部記事の非公開になったのではないか……などと心配になっておりました。もちろん私が勝手に心配になっていたことです。どうかお気になさらないでください。
>コメントの内容については、どうぞご遠慮なくお書き頂いて構いません。
ありがとうございます! 感謝してもしきれないお言葉です!
ただし、今後は当方からコメント・質問をするのは少しく控えたい……と思っています。
というのも、mさんの貴重なお時間を奪ってしまうのはどうも気が引けますし、
ましてや、「過去の剽窃の被害のトラウマ」を呼び覚ます危険を冒してまで
mさんにご発言を強いるというのは、私の願うところでは断じてないからです。
もちろん足利両将軍や「観応の擾乱」に対する興味が失われたわけでは全くありません!
気になるところ・お伺いしたいところは山のようにあります。
私で山のようになるのですから、おそらく研究中だったころのmさんなど須弥山のごとくだったでしょう(太平記的筆法で書いてみました)。
ただ、mさんの時間・健康・意思を重んじればこそ、軽々しく質問をするのは気が引ける、ただその一事です。
今後は、正真正銘どうしようもなくなったときだけ、自分の論拠・根拠などをしっかりとまとめた上でコメントしたいと思います。
>頂いたコメントには、また改めてきちんとご返信いたします。
恐縮の限りです……。
定期的にブログを拝見しにきたいとは思いますが、しばらくのあいだ返事がなかったかと言って、思う所はありません。どうか、ご自分の人生と健康を優先なさってください!
……。
それから、色々書いてしまって申し訳ありませんが、
以下、お伝えいたします。
今の私は暇を盗んで『大日本史料』を眺めるのですが(白状しますが、データベースで眺め、気になったところを要点のみノートに記す、という方法です)、正直言って、一ヶ月分を読むだけでも大難行です! これをmさんは数十年間分やっていたのか……いや、もっとか……と思うと気が遠くなります。想像も及ばない苦労があったことと拝察しますし……その苦行の結実が盗まれる、という事態の凄まじさと言ったら、口が裂けても「共感できる」とは言えません。
しかも、たとえば1.A先生が剽窃する → 2.そうと知らずB先生が参照する。 → 3.さらにC先生がB先生の論調を参照する。 → 4.市井の人々がSNSその他でその情報を広める……という事態になってしまいますと、自覚なき剽窃がありふれることになってしまい、なんというか、mさんとしては悪意に包囲されているような気分になるのではないか、などと勝手な推測まで働いてしまいます……。人の心を勝手に推し量るのは断じて趣味ではないので、このくらいにしておきます。
しかし、上記のような事態もありうる、ということを考えると、あまり軽々しくご質問もできない、と思うようになったのです。
なんだか取り留めのないコメントになってしまいました。
考えていることを文章にする、というのは難しいものですね……。メール文面の作成はそれなりに慣れているはずなのですが……。
ともあれ、お返事をくださいましたこと、末尾ながら改めて御礼申し上げます。
乱文乱筆、失礼いたしました。