がんの告知を受けてから今日で一年。
まだ闘病が続いているけれど、今日までよく頑張った。
今すぐ死ぬステージではないけれど、再発したら終わりだなって思って生きてる。

もしもの時は、誰に何を伝え残せるか……
ずっとそれを考えてきたけれど、今日まで何も誰も見つけられなかった。
私が死んだら、尊氏も直義も、明応のあの真相も、
すべてまた闇に消えちゃうんだな……
それだけが心残り。
今日も疲れた。闘病ももう疲れた。早く寝よう。

 

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  1. mさん

    長らくご無沙汰しております、いつぞやコメントを書き込ませて頂きました、太平記の一ファンです。

    mさんの事情に鑑み、コメントはこの一回限りと致します。また、文章を書く・読むこと自体体力が必要かと思いますので、ご返信の有無はまったくmさんにお任せします。ご返信がなくても私に思う所はまったくないことを誓います。

    さて、以前コメントした折は、もしかしたら自分の不用意なコメントのためにmさんを不安にさせてしまったかと思い、それ以後、コメントは控えておりました。しかしこの度、mさんの状況に驚愕し、何か伝えられることがあるのではないかと思い、久しぶりにコメントさせていただく次第です。

    しかしながら、現在のmさんの状況は私の想像が及ぶところではなく、何を書いたとしても、取り繕ったような言葉しか出てこない気がします。むしろ不用意な言葉でmさんを傷つけてしまうことを危惧します。

    それでもなお、自分が伝えられることは何かと、この数日考えた末に……突拍子もないことだと自分でも思いますし、ともすれば大いに失礼になるかもしれないと思いながらも、尊氏・直義について自分なりに調べ、考えたことを、僅かながら書き記そうと思うようになりました。

    なぜならば、私が一次史料や各種論文に当たるようになったのは、ひとえにmさんのブログ記事があればこそであって(ちなみに初めて読んだ記事は尊氏の地蔵菩薩絵の記事です)、それゆえに、自分の考察結果を僅かながらでも開陳することで、mさんから影響を受け、mさんから学んだことがある人間が少なくとも一人いるということを、mさんに伝えられることになるかもしれない、それで少しでもmさんが勇気付けられるかもしれないと、不遜ではありましょうが、そう思うようになったからです。

    これがmさんにとって最良のことであるとは思っていません。できることなら、信頼できる研究者を紹介する、研究者基準で対話ができるネット上の議論の場を用意する、といったことが提案できるならと思いますが……残念ながら、私にはまったく伝手もノウハウもありません。みずからの無力を痛感します。

    以下、論証部分はすべて省き、結論のみ箇条書きで記します。すべて、他で公表したことはありません。不都合な内容を含む場合は削除してください。

    なお、以下はすべて、mさんのブログ記事を基にしての考察したものであって、私の独創と呼ぶべきものはほとんどありません。また、まったくの筋違い、考察不足、知識不足から来る勘違い、史料の誤読から来る誤謬、その他もろもろが大いにありましょう。全てがそうであってもおかしくないと思います。しかしそれでも、ここで沈黙を守るよりはと、勇気を振り絞って以下記します。

    (1)尊氏が祇園社に願文を納めた日付は康永3年12月15日であり、これは直義および斯波高経が長門二宮に和歌を奉納した日付とまったく一致する。重視すべき符合である。

    (2)尊氏が祇園社に納めた願文には「生死の流転せん事……」という一節がある。これは尊氏が毎年の書初めに書いたという「生死根源……」なる一文を想起させる。

    (3)尊氏は康永3年において、源頼朝の先例を追うことになるはずの右近衛大将補任を辞退している。そして直義も、源氏将軍の象徴たる六条八幡宮に関わる権限の行使を拒否している(しかし尊氏が相当無理な方法でこれを事実上行使させている)。

    (4)直冬が観応2年(貞和7年)6月1日に長門二宮に納めた和歌は、その年号が「貞和七年」になっている。これは注意すべきである。貞和年号の継続使用が尊氏または直義の指令である可能性がある。

    (5)上杉重能は暦応2年~康永3年初頭に及ぶまで、関東執事を務めていた可能性がある。

    (6)直義が観応1年10月に京都から逐電した理由は、本人が証言する通り、襲撃から逃れるためである。その後の、幕府への敵対行動は決して計画的なものではなかった。

    (7)高師直が誅伐された後の尊氏と直義の話し合いにおいて、定説では「尊氏は上杉能憲の処刑を強く求めたが、直義があれこれ宥めた結果、上杉能憲は島流しに決まった。」と解されているが、正しくは「尊氏は上杉能憲を処罰することに強い難色を示したが、直義が処罰すべきことを主張した結果、上杉能憲は島流しに決まった。」と解すべきである。

    (8)観応2年の擾乱再燃までの期間における幕府要人の動きについては、むしろ南軍の発給文書にこそ注意すべきである。たとえば、佐々木道誉の膝下庄園の武士が南軍に帰参している徴証がある。

    (9)高師直の御所巻きにおいて、もし尊氏と師直の内通が虚偽であるならば、以下の問いを検討すべきである。すなわち、高師直が御所巻きに踏み切った以上、何らかの権威の後ろ盾があったはずである、それが尊氏で無いとすれば、一体だれか?

    (10)観応の擾乱の師直・直義対立期において、尊氏が兵庫あたりで舟遊びをしたついでに失踪した、という噂が京都で流れた。これは尊氏が流布した虚報であるかもしれない。

    (11)赤橋登子が尊氏の二つ上であるという説は正しい。なぜならば、尊氏の重厄の年の二年前、尊氏が三宝院賢俊に命じて、赤橋登子のために普賢延命法を修するよう突然命じているためである。

    (12)観応の擾乱再燃期においてみられた、直義の軍勢催促状上の「嗷訴の輩誅伐の事」という文句は額面通り捉えるべきである。すなわち当時の幕府には「嗷訴の輩」と称すべき者がいた。

    (13)文和3年における、いわゆる尊氏願経の事業は、むしろ政治的観点から重視すべきである。

    (14)浄妙寺に伝来する尊氏の地蔵菩薩像は、尊氏の指令による奉納かもしれない。

    (15)尊氏が源頼朝の厳罰主義を批判的に見ていたという『梅松論』の記述は重視すべきかもしれない。

    闘病中である方に以上を吟味せよと求めるつもりは全くありません。また、改めて申し上げますが、ご返信なさらなくても私に思う所はありません。どうか御自身の事情を優先なさってください。

    最後になりますが、月並みな言葉で誠に恐縮ながら、何卒、ご自愛ください。

    乱文乱筆、誠に失礼致しました。

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