今日は、建武4年(1337)12月25日に鎌倉「杉本城の戦い」で果てた 足利家長(斯波家長)の新暦的命日。
グレゴリオ暦では1338年1月24日なので、季節的には寒中真っただ中の一番寒い真冬。享年数え17歳(おそらく満16歳)の少年大将。
ということで、10年近く前の 足利家長関連ブログ記事 をまとめてみました。
① 室町的鎌倉旅行記(その2)
2015年12月25日
(※最初の2割くらい無駄話。後半は足利高経(←家長の父ちゃん)の無駄話)
② 室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」
2016年02月25日
(建武2年(1335)8~12月の足利家長の奥州斯波(?)紀行)
③ 室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」
2016年03月09日
(建武3~4年(1336~1337)関東執事足利家長と、奥州相馬一族の事)
④ 室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」
2016年03月21日
(足利家長と従兄弟の兼頼の話、家長の家系と源氏の宝刀「鬼切」のゆくえ)
足利家長(斯波家長)の生涯とか人物像に関する詳しい研究ってほとんどなくて、(奥州とか、関東執事としての職掌についてはまああるにしても)今でも主要な事績に簡潔に言及したもので…
【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】(の p.378-380)
…くらいなんじゃないかな(知らんけど)
なので私が単身、一次史料から掘り起こしまくった渾身の足利家長研究です。
無駄にマニアックで読むの大変すぎですが、「ここまで徹底的に史料的史実なのに、小説よりも真冬の空の星よりも眩しいほどに輝いた話」なので歴史に埋もれさせておくのが忍びなく妥協できませんでした。
上記のうちメインは③かな。(④はちょっと話広がりすぎ感)
『太平記』で(当時数え8歳の)千寿王(=幼少期の足利義詮)が「鎌倉での防戦を主張した」って話は、あれは足利家長の言葉で間違いないと思います。家長は負けるのが分かってて杉本城に向かったのですよ。
大将の自分が壮絶な攻防戦ののち戦死を遂げる———そうすることで「味方の士気を下げることなく、敵に後ろを見せることなく、世評を落とすことなく、主君の千寿王(足利義詮)を逃がすとともに、戦力の損失を最小限に抑える=上杉憲顕たち残された者の戦力を最大限温存する」
一命と引き換えにすべてを叶えた最大の戦略ですね。
「 "自分が " 討死したら残った者達は鎌倉から逃れて、そして敵を追ってくれ」
あと、上記ブログ記事は「尊氏のあれこれ」にも言及してますが、とりあえず当サイトのこの記事も一緒にどうぞ↓↓
「西園寺公宗クーデター未遂事件」の気掛かりと「中先代の乱」の追憶
2022年3月28日
尊氏は本当、すべてお見通しの先の先まで先読み将軍ですよ。
※参照:この記事の最後のまとめ↓↓
尊氏と畠山尚順の先読み能力
2021年5月16日
あと足利家長に関しては、相馬重胤たち奥州相馬一族 との主従関係が広まって欲しいな、とか内心ずっと願ってるんですが。
相馬重胤・相馬胤康の討死と、その翌年の足利家長の討死は、まさに「命でやり取りした」、あるいは「命を交し合った主従」と言えるのではないかと。
本当はもっと語りたいことあるんですが、「次回に続きます」と言ったきりもう10年経ってしまうのか…

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