初代将軍 足利尊氏 と、明応世代のヒーロー 畠山尚順 は戦い方が似てる。
※畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)は、室町中後期の『明応の政変』時期に活躍するスーパーHERO。 『応仁の乱』の一方の主役 畠山政長の嫡男。(…つまり生まれながらにして王子、かつ史実で「甚だ美麗」と言われる超美少年、でも波乱の修羅人生を送るっていう。) スペックは畠山義就と畠山政長を足して2で割るの忘れた値。 主君である将軍 足利義材(または義尹、義稙)に人生丸ごと捧げてるレベルの絶対忠誠マン。 ただし今のとこ日本中世研究史上さっぱり見捨てられてる、というか評価どん底。 近年、畠山尚順のやばさに気付いた草の根研究員たちが、やつの名誉回復の為ネットの片隅で頑張ってるところ。
状況掌握力・先読み能力があり過ぎな人知を超えたスペックのこの二人は、その人生も壮絶にドラマチック。
以下、Twitter投稿分です。
尚順の戦略追ってるとさ、実に尊氏を彷彿とさせるんだよねぇ...
状況へのレスポンスの速さとか、目的のためなら一見真逆の方法取るとか。普通の凡人はそんな方法まず取れない。だって、上手く行くなんて絶対に思えないから。あの二人はどんだけ先の先まで読める能力持ってたんだよってゆう。— m (@muromarockR) February 17, 2018
尊氏と尚順に共通するのは、常に最大の目的(大義of大義)を見据えてたって事なんだろうな。普通の人間は、目の前の事態にその都度その都度対処している間に本来の目的を見失っちゃう。で、気付けば何やってんだ俺、みたいな。…って何その義英方畠山。てゆうか『応仁の乱』の山名宗全と細川勝元。
— m (@muromarockR) February 17, 2018
それでは続けて参考に、畠山尚順の驚異の頭脳戦の話です↓
(※ブログ「☆☆Happy Birthday 尚順!!(旧暦編)」(←コメントも)と、「お知らせ2つと伊勢の事」(の前半)がより詳しい関連記事になってます。)
これ実は「尚順が澄元を自陣に引き入れるために、澄元が方針転換したくなるように誘導した」って思ってる。意味分からんな。でも方針転換の直前まで、赤澤による大和焦土戦で絶対的に優位だった澄元が、尚順に跪くかの如き条件で和睦ってどう考えてもおかしい。尚順が全主導権握ってる。 https://t.co/UPrfFD2Jpt
— m (@muromarockR) February 17, 2018
(↑これに続く179さんのツイート2つもご覧ください→★)
この時期ちょうど…『多門院日記』12月8日に「近日西国蜂起之由日々注進(で義澄が取り乱してる)」ってあってなんかタイムリーかつ重大な事態っぽいんですけど、一方で京都の公家の日記には同時期には焦った記述が無いんですよね。(大日本史料DBの稿しか見てないけど)。
— m (@muromarockR) February 17, 2018
私これ、尚順が流したブラフだとわりとマジで思っているんですがw
— m (@muromarockR) February 17, 2018
↓次の日の続き。
昨日「永正4年12月頃に騒がれてた西国蜂起の注進は尚順が流したブラフ」とか言ってみたけど、流石にそれは言い過ぎたかな~と思って半日考え直していたらああああああああアアアッッーーーーーー!!!
— m (@muromarockR) February 18, 2018
義材と義興が周防国山口を出発したのって、諸説あるけどおそらく永正5年正月になってから。防府の三田尻から大船70余艘で出航して周防国室津に着いたのが1月21日、そして安芸国蒲刈に着いたのが2月12日、そこで1か月逗留。(そしてぼちぼち港を経て堺に到着したのが4月27日)
— m (@muromarockR) February 18, 2018
なのに、『多門院日記』永正4年12月27日に既に「筑紫公方様御上洛、安芸国蒲刈に御著」という情報、意味不明。 『元長卿記』永正5年正月4日条には「西国蜂起で旧冬(=永正4年12月)(義材は)蒲刈に御着岸、船700艘」とかいう噂。ゼロ1こ多いだろ!!
— m (@muromarockR) February 18, 2018
11月末頃から流し続けたブラフ情報で義澄と細川澄元は震え上って上洛阻止から和睦へと方針転換。はったりに気付いたのは嶽山城落城後かな? 2月20~23日に「義材、安芸国蒲刈に到着」の本物情報に基づき「上洛阻止せよ!」って御内書弾幕を全方位にぶっ放してる。この頃には完全に方針"再"転換。
— m (@muromarockR) February 18, 2018
義澄&澄元「よくもだましたアアアア!!だましてくれたなアアアア!!」
— m (@muromarockR) February 18, 2018
てゆうか尚順、澄元を騙したつもりかも知んないけど、大日本史料も騙されてんぞ。どうすんだよお前。
— m (@muromarockR) February 18, 2018
さっきの2月12日蒲刈到着は『不問物語』より。『実隆公記』永正5年2月23日にも「義材蒲刈到着」の本物情報。 でも大日本史料(稿)は『多門院日記』『元長卿記』の永正4年12月説を採用してる。それ尚順のブラフ…
— m (@muromarockR) February 18, 2018
(↑ちなみに、この辺は「大日本史料」の 未刊行部分 なので、刊行される時にはきっと修正されて「細川澄元、畠山尚順のブラフに騙されて了んぬ」って注釈が付けられると思うたぶん。)
以上、Twitterよりまとめ。
非常に細かい話で訳分からなくてすみませんが、このレベルのアクロバットな戦略・真相が、実は初代将軍 足利尊氏 に関するいくつかの大戦闘で眠ってます(特に『観応の擾乱』期のもので)。 この畠山尚順の例くらい史料を読み込むと出てくる、ってことを伝えたくて長々とTwitter引用しました。
私の2つの事績ブログでは、尊氏が 先読み能力持ち って事を以前から繰り返し語っているものの(※「先読み」で検索すると色々出ます)、史料に基づいた上記のような解説は未だ出来ていなくて無念至極…ですがとにかく想像を超えたコンテンツです、足利尊氏 という将軍は!
つまり、尊氏と畠山尚順は異次元の天才主人公。もうゲームか映画かアニメでしか表現不可能。
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