足利尊氏のお墓は京都「等持院」と鎌倉「長寿寺」にあって、当時の複数の記録で、京都での尊氏の追号は「等持院殿」、鎌倉での追号は「長寿寺殿」と記されていますが、「長寿寺殿」については尊氏の生前から決まっていたらしいこと、その上、調べてみると薨去当時は京都における仏事で(等持院殿ではなく)「長寿寺殿」と号されているというわりと謎な事実があります。(※追号…没後に贈る称号)

そこから見える、『観応の擾乱』過ぎし晩年の、尊氏の「鎌倉」に対する思いを探る…というツイート。

 

 

『観応の擾乱』ってまだ突き詰められていない真実が沢山あります。

上記ツイート内で「『観応の擾乱』を経た晩年の尊氏の考える「鎌倉」は、想像以上に特別な位置付けがなされていたと思う。」と言ってますが、これは単なる妄想ではなく、史料を根拠とした事実だったりします。 それを尊氏さんの追号が補強してくれている、というのがこの一連ツイートの含意です。

 

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