足利尊氏のお墓は京都「等持院」と鎌倉「長寿寺」にあって、当時の複数の記録で、京都での尊氏の追号は「等持院殿」、鎌倉での追号は「長寿寺殿」と記されていますが、「長寿寺殿」については尊氏の生前から決まっていたらしいこと、その上、調べてみると薨去当時は京都における仏事で(等持院殿ではなく)「長寿寺殿」と号されているというわりと謎な事実があります。(※追号…没後に贈る称号)
そこから見える、『観応の擾乱』過ぎし晩年の、尊氏の「鎌倉」に対する思いを探る…というツイート。
ところで尊氏の追号は、京都では「等持院殿」鎌倉では「長寿寺殿」ですが、やっぱり初めは「長寿寺殿」なんよね。
「存日之號」(神護寺交衆任日次第)つまり生前尊氏自身が望んだ?— mu (@muromachoco) June 5, 2021
少なくとも薨去後三十五日忌の仏事では「長寿寺殿」と記されてる。一周忌、二年目は記録無し。七回忌に「等持院殿」とあり。
思うに、尊氏自身は鎌倉に永眠する事にかなり想いが強かったんじゃないかと。
— mu (@muromachoco) June 5, 2021
(大好きな直義の眠る場所だもんな、そりゃあそうだよな!) …というのは妄想願望にしても、『観応の擾乱』を経た晩年の尊氏の考える「鎌倉」は、想像以上に特別な位置付けがなされていたと思う。
— mu (@muromachoco) June 5, 2021
この三十五日忌は、京都で乾峰士曇(廣智国師)が導師となり執り行われたもの。鎌倉じゃないのだよね。 https://t.co/yWbCXdaUVp
— mu (@muromachoco) June 5, 2021
初月忌(薨去後1か月)の京都「檀林寺」の法語でも「長寿寺殿」となってる尊氏さん。
まあもともと母の上杉清子の追号が「等持寺殿」なので、清子が等持寺殿→果證院殿となった後、尊氏の京都での追号が「等持院殿」となったのだろうから、薨去直後は等持院殿となり得なかったのかもだけど…
— mu (@muromachoco) June 5, 2021
…それにしたって、あの頃の京都と鎌倉武士の関係を思うと、あと寺院・仏教界での大人の事情を思うと、京都で他界した京都の将軍尊氏が、鎌倉由来の「長寿寺殿」で称されるって、、え?いいの?いいの?って色々とドキドキしてしまうよね。
尊氏さん、かなり強い想いと意志を持っている。。
— mu (@muromachoco) June 5, 2021
『観応の擾乱』ってまだ突き詰められていない真実が沢山あります。
上記ツイート内で「『観応の擾乱』を経た晩年の尊氏の考える「鎌倉」は、想像以上に特別な位置付けがなされていたと思う。」と言ってますが、これは単なる妄想ではなく、史料を根拠とした事実だったりします。 それを尊氏さんの追号が補強してくれている、というのがこの一連ツイートの含意です。
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